曹洞宗の太祖である瑩山紹瑾禅師は、加賀や能登(総じて、現在の石川県)を中心に、多くの寺院を建立したことでも知られているが、つまりはそれだけ「住持のポスト」が出来てしまったわけで、後孫達にはその住持たる資格を持つ生き方とは、どのようなものかを説く必要性を感じていたようである。よって、次のような文書が残された。
諸門人中、悉知のこと
住持職の人、皆、文書を帯す。浄住・總持両人の如し。若し此の如き人を得て、住持を補任するが如きは、小院たりと雖も、大刹に準ずべし。又、退院の長老、休息すべき地なり。然れば、光孝・放生は、門徒宿老の休息する所なり。
仍て、両寺の文書は洞谷の寺庫に在って、嗣法の門人、相い計って、房主職を補すべし。
人に依って、或いは庵主と称し、或いは山主と称し、或いは和尚と称す。已に嗣法の尊宿ならば、布薩・上堂を行じて、緇白二衆の為に、授戒・入室を行ぜよ。院の大小を論ぜず、是を人天師となす。是れ従上は仏祖の訓訣なり。
和尚の称、猥りなるべからず。仏に代わって化を揚ぐ、是れを住持と云い、是れ則ち祖位なり。
大乗寺古写本『洞谷記』
後の流布本や、『曹洞宗全書』所収本とは、若干字句を異とするが、いわんとするところは大体同じである。前半部分については、寺院の格というか、その機能を記したものであり、ここでは特に関係ない。むしろ、見ていきたいのは、後半部分である。寺院に入る際、「庵主」「山主」「和尚」などと称する場合がある。現在も、この辺については、「和尚」というのは、僧侶の分限の呼称として用いられ、あと寺院に於ける役割としては「住職」「副住職」「徒弟」という明確な決まりがあるが、それを超えると、後は寺院名などによって、呼称が分けられる程度であり、ここは明確な決まりはない。
「●●寺」の住持ならば、「寺主」。「●●院」ならば、「院主」。「●●庵」なら「庵主」、そして「●●斎」ならば、「斎主」といった具合である。現在の曹洞宗では、ほぼ全ての寺院に「山号」があるから「山主」というのは上記の差異に関わらず用いられる。ただ、瑩山禅師も注意しているが「和尚」というのは、猥りに使ってはならないという。現在では、更に「大和尚」という位階が設けられているので、「和尚」というと、副住職か、または「結制安居」を置いていない住職といった側面が強いが、古来は以下のような定義があった。
五夏以上、即ち闍梨位なり、十夏已上、是れ和尚位なり、切に須らくこれを知るべし。即ち是れ甘露の白法なり。
『対大己五夏闍黎法』第十五
明確に、長年の安居の修行を行ったものだけが「和尚」を名乗ることが出来たのである。現在では、この辺が曖昧になり「法臘(戒臘)」という言葉も、余り自覚されなくなったが、古来は以上のように、その長さで、呼ばれるべき称まで変化していたのである。また、瑩山禅師がこだわった、「院の大小」であるが、確かに道元禅師も、「叢林の大小」については、修行僧の「道心の有無」でもって判ずべきだという、禅宗の古例を踏襲しているけれども、もう一方で、以下のような規定も行っている。
かの榜、かく式あり。知事・頭首によらず、戒臘のままにかくなり。諸方にして頭首・知事をへたらんは、おのおの首座・監寺とかくなり。数職をつとめたらんなかには、そののちにつとめておほきならん職をかくべし。かつて住持をへたらんは、某甲西堂とかく。小院の住持をつとめたりといへども、雲水にしられざるは、しばしばこれをかくして称せず。もし師の会裏にしては、西堂なるもの、西堂の儀なし、某甲上座とかく例もあり。おほくは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。さらに衣鉢侍者に充し、あるいは焼香侍者に充する、旧例なり。いはんやその余の職、いづれも師命にしたがふなり。他人の弟子のきたれるが、小院の住持をつとめたるといへども、おほきなる寺院にては、なほ首座・書記・都寺・監寺等に請するは、依例なり、芳躅なり。小院の小職をつとめたるを称するをば、叢林わらふなり。よき人は、住持をへたる、なほ小院をば、かくして称せざるなり。
『正法眼蔵』「安居」巻
これは、「戒臘牌」に自分の名前を書くときの注意である。実際に、その制中でいただく配役があるが、今の日本曹洞宗と違って、「数百・数千」といった僧侶が一堂に会して安居を行っていた南宋の禅林では、もう配役などは一部を除いて、ほとんど当たることはなかったようである。よって、以上のように、かつて得た配役などを元に、自分の名前を書いたのである。
頭首・知事⇒首座・監寺(より大きい配役に準ず)
大院住持⇒西堂
小院住持⇒上座・侍者
やはり、大寺院で大きな配役に当たることを記すべきで、小院で小さな配役にしか当たったことがないのなら、それは秘すべきだというのである。現在でも、曹洞宗では両大本山にて配役をいただくことを、是とするから、この辺は活かされていると見るべきだろう。
話を元に戻すが、瑩山禅師は既に嗣法を済ませた尊宿であるならば「布薩」や「上堂」を修行するように諭している。「布薩」とは、戒を受けた者が、自ら行う反省会である。「上堂」とは、当時は5日に1度、修行僧たちを前に行われた、説法のことである。
また、「緇白二衆」というのは、黒衣・白衣の二衆、つまり、出家・在家ということだが、この者達のために「授戒」や「入室」を行うべきだという。これは、戒を授けて仏縁をつなぎ、入室を行ってその迷妄を破するのである。瑩山禅師は、このような修行は、「院の大小を論ぜず」とされている。確かに、瑩山禅師自身も、開いたばかりのはずの、阿波城万寺にて、70人ともいわれる者達に「授戒」を行ったことがあったが、それは院の大小を気にしていたら、とてもままならなかったことであろう。
つまり、このようなことは、住持たる者の勤めであって、更には和尚と呼ばれる者の勤めなのである。「仏に代わって化を揚げる」ことが肝心であり、それが出来るのは、嗣法が終わり、「祖位」を継承した者なのである。瑩山禅師はこの「祖位の継承」を大変に重んじる。『伝光録』の例を見てみよう。
・是れ皆昔し諸芸を習ひしかども、祖位に列して後は、捨られし諸芸の弟子、われも龍樹は即ち本祖なりといへり。(第14章)
・諸天、尊んで導師となす。祖位を継ぐの時至れるを以て、遂に月支に降る。(第19章)
・終に第三の祖位に列なる。(第30章)
・因て宝慶元年乙酉、日本嘉禄元年忽ちに五十一世の祖位に列す。(第51章)
「祖位」というのは、法灯を嗣続したことで列せられる位である。いわば、「附法蔵の祖師」ということである。瑩山禅師は、住持とはこの「祖位」であるという。当然、いまは嗣法をした者しか成れないわけだけれども、当時と今では、この嗣法の重みも随分と違う。とはいえ、嗣法している事実に相違あるわけではない。嗣法したのであれば、どれほどに「形式に堕する」状況であっても、仏陀の正法眼蔵を嗣いだのである。
最近読んでいた大澤真幸氏『生きるための自由論』(河出ブックス)には、「形式の実質的効果」という一項があり、これを読んで、かつて曹洞宗で行われていた嗣法に観する「形式」「内容」の議論は、或る程度無実化することになった観がある。つまり、内容を重視する者が「形式ばかりで内容が無い」という時、形式が効果を及ぼすことを意図的に忘れようとしているのだ。そして、その者達の意図と、現実は別のところにある。その意味で、【告朔餼羊】という言葉は、再度評価されて良いように思う。
つまり、どれほどに小さなことでも、実際に行われなければ、意味は無く、実際に行われていれば、それがどれほどに小さなことでも、社会に、人に、影響を与えるのである。「住持」とは、そのような「行動」とともに存在する。
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諸門人中、悉知のこと
住持職の人、皆、文書を帯す。浄住・總持両人の如し。若し此の如き人を得て、住持を補任するが如きは、小院たりと雖も、大刹に準ずべし。又、退院の長老、休息すべき地なり。然れば、光孝・放生は、門徒宿老の休息する所なり。
仍て、両寺の文書は洞谷の寺庫に在って、嗣法の門人、相い計って、房主職を補すべし。
人に依って、或いは庵主と称し、或いは山主と称し、或いは和尚と称す。已に嗣法の尊宿ならば、布薩・上堂を行じて、緇白二衆の為に、授戒・入室を行ぜよ。院の大小を論ぜず、是を人天師となす。是れ従上は仏祖の訓訣なり。
和尚の称、猥りなるべからず。仏に代わって化を揚ぐ、是れを住持と云い、是れ則ち祖位なり。
大乗寺古写本『洞谷記』
後の流布本や、『曹洞宗全書』所収本とは、若干字句を異とするが、いわんとするところは大体同じである。前半部分については、寺院の格というか、その機能を記したものであり、ここでは特に関係ない。むしろ、見ていきたいのは、後半部分である。寺院に入る際、「庵主」「山主」「和尚」などと称する場合がある。現在も、この辺については、「和尚」というのは、僧侶の分限の呼称として用いられ、あと寺院に於ける役割としては「住職」「副住職」「徒弟」という明確な決まりがあるが、それを超えると、後は寺院名などによって、呼称が分けられる程度であり、ここは明確な決まりはない。
「●●寺」の住持ならば、「寺主」。「●●院」ならば、「院主」。「●●庵」なら「庵主」、そして「●●斎」ならば、「斎主」といった具合である。現在の曹洞宗では、ほぼ全ての寺院に「山号」があるから「山主」というのは上記の差異に関わらず用いられる。ただ、瑩山禅師も注意しているが「和尚」というのは、猥りに使ってはならないという。現在では、更に「大和尚」という位階が設けられているので、「和尚」というと、副住職か、または「結制安居」を置いていない住職といった側面が強いが、古来は以下のような定義があった。
五夏以上、即ち闍梨位なり、十夏已上、是れ和尚位なり、切に須らくこれを知るべし。即ち是れ甘露の白法なり。
『対大己五夏闍黎法』第十五
明確に、長年の安居の修行を行ったものだけが「和尚」を名乗ることが出来たのである。現在では、この辺が曖昧になり「法臘(戒臘)」という言葉も、余り自覚されなくなったが、古来は以上のように、その長さで、呼ばれるべき称まで変化していたのである。また、瑩山禅師がこだわった、「院の大小」であるが、確かに道元禅師も、「叢林の大小」については、修行僧の「道心の有無」でもって判ずべきだという、禅宗の古例を踏襲しているけれども、もう一方で、以下のような規定も行っている。
かの榜、かく式あり。知事・頭首によらず、戒臘のままにかくなり。諸方にして頭首・知事をへたらんは、おのおの首座・監寺とかくなり。数職をつとめたらんなかには、そののちにつとめておほきならん職をかくべし。かつて住持をへたらんは、某甲西堂とかく。小院の住持をつとめたりといへども、雲水にしられざるは、しばしばこれをかくして称せず。もし師の会裏にしては、西堂なるもの、西堂の儀なし、某甲上座とかく例もあり。おほくは衣鉢侍者寮に歇息する、勝躅なり。さらに衣鉢侍者に充し、あるいは焼香侍者に充する、旧例なり。いはんやその余の職、いづれも師命にしたがふなり。他人の弟子のきたれるが、小院の住持をつとめたるといへども、おほきなる寺院にては、なほ首座・書記・都寺・監寺等に請するは、依例なり、芳躅なり。小院の小職をつとめたるを称するをば、叢林わらふなり。よき人は、住持をへたる、なほ小院をば、かくして称せざるなり。
『正法眼蔵』「安居」巻
これは、「戒臘牌」に自分の名前を書くときの注意である。実際に、その制中でいただく配役があるが、今の日本曹洞宗と違って、「数百・数千」といった僧侶が一堂に会して安居を行っていた南宋の禅林では、もう配役などは一部を除いて、ほとんど当たることはなかったようである。よって、以上のように、かつて得た配役などを元に、自分の名前を書いたのである。
頭首・知事⇒首座・監寺(より大きい配役に準ず)
大院住持⇒西堂
小院住持⇒上座・侍者
やはり、大寺院で大きな配役に当たることを記すべきで、小院で小さな配役にしか当たったことがないのなら、それは秘すべきだというのである。現在でも、曹洞宗では両大本山にて配役をいただくことを、是とするから、この辺は活かされていると見るべきだろう。
話を元に戻すが、瑩山禅師は既に嗣法を済ませた尊宿であるならば「布薩」や「上堂」を修行するように諭している。「布薩」とは、戒を受けた者が、自ら行う反省会である。「上堂」とは、当時は5日に1度、修行僧たちを前に行われた、説法のことである。
また、「緇白二衆」というのは、黒衣・白衣の二衆、つまり、出家・在家ということだが、この者達のために「授戒」や「入室」を行うべきだという。これは、戒を授けて仏縁をつなぎ、入室を行ってその迷妄を破するのである。瑩山禅師は、このような修行は、「院の大小を論ぜず」とされている。確かに、瑩山禅師自身も、開いたばかりのはずの、阿波城万寺にて、70人ともいわれる者達に「授戒」を行ったことがあったが、それは院の大小を気にしていたら、とてもままならなかったことであろう。
つまり、このようなことは、住持たる者の勤めであって、更には和尚と呼ばれる者の勤めなのである。「仏に代わって化を揚げる」ことが肝心であり、それが出来るのは、嗣法が終わり、「祖位」を継承した者なのである。瑩山禅師はこの「祖位の継承」を大変に重んじる。『伝光録』の例を見てみよう。
・是れ皆昔し諸芸を習ひしかども、祖位に列して後は、捨られし諸芸の弟子、われも龍樹は即ち本祖なりといへり。(第14章)
・諸天、尊んで導師となす。祖位を継ぐの時至れるを以て、遂に月支に降る。(第19章)
・終に第三の祖位に列なる。(第30章)
・因て宝慶元年乙酉、日本嘉禄元年忽ちに五十一世の祖位に列す。(第51章)
「祖位」というのは、法灯を嗣続したことで列せられる位である。いわば、「附法蔵の祖師」ということである。瑩山禅師は、住持とはこの「祖位」であるという。当然、いまは嗣法をした者しか成れないわけだけれども、当時と今では、この嗣法の重みも随分と違う。とはいえ、嗣法している事実に相違あるわけではない。嗣法したのであれば、どれほどに「形式に堕する」状況であっても、仏陀の正法眼蔵を嗣いだのである。
最近読んでいた大澤真幸氏『生きるための自由論』(河出ブックス)には、「形式の実質的効果」という一項があり、これを読んで、かつて曹洞宗で行われていた嗣法に観する「形式」「内容」の議論は、或る程度無実化することになった観がある。つまり、内容を重視する者が「形式ばかりで内容が無い」という時、形式が効果を及ぼすことを意図的に忘れようとしているのだ。そして、その者達の意図と、現実は別のところにある。その意味で、【告朔餼羊】という言葉は、再度評価されて良いように思う。
つまり、どれほどに小さなことでも、実際に行われなければ、意味は無く、実際に行われていれば、それがどれほどに小さなことでも、社会に、人に、影響を与えるのである。「住持」とは、そのような「行動」とともに存在する。
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