天台宗の学僧で、深い阿弥陀信仰をお持ちであられた恵心僧都源信には、『往生要集』という文献があります。先日、それをつらつら読んでいたところ、出家と在家の姿について示しておられたことに気付きました。今日はそれを考えてみたいと思います。
問ふ、凡夫の行人はかならず衣食を須ゐる。これ小縁なりといへども、よく大事を弁ず。裸・?にして安からずは、道法いづくんぞあらん。
答ふ。行者に二あり。いはく、家と出家となり。その在家の人は、家業自由にして、餐飯・衣服あり。なんぞ念仏を妨げん。『木槵経』の瑠璃王の行のごとし。
その出家の人にまた三類あり。
もし上根のものは、草座・鹿皮、一菜・一菓なり。雪山の大士のごとき、これなり。
もし中根のものは、つねに乞食・糞掃衣なり。
もし下根のものは、檀越の親施なり。ただ少し得るところあれば、すなはち足るを知る。
『往生要集(下)』
要するに、凡夫の修行者は、修行を行うにあたり、必ず衣食を用いなくてはならない、僅かなことであっても、大事の成就を分けてしまうといっています。つまり、修行の時、衣食に事欠いてしまったならば、仏法を修行することは、どのようにして可能なのか?と聞いているわけです。
それに対して源信の答えは、行者には「家(在家)と出家」とがあるとしています。そして、在家の人は、その生業は自由であって、食事も衣服もあるから、念仏修行を行うのに妨げは無いとしています。問題は、出家の方です。出家には上中下という機根の違いを挙げながら、上根の者は、極めて少ない食事・衣服で済んでしまうので、他人との関わりが無くても良いということになるのでしょう。中根の者は、自ら乞食を行い、糞掃衣を作るということで、これはいわゆる世俗にて必要とされない衣食を戴きながら生きることになるので、消費物は少ないといえましょう。問題は下根ですが、檀越からの「親施」であるとしています。要するに、在家信者からの多額の布施をもって、その身を支えるということです。然るに、源信は「少欲知足」を説いて、親施を得る時の注意点を指摘しているといえましょう。
そして、そのようにして自らの身を支えながら、修行(同著の場合には念仏)を行うべきだと考えているわけです。
実際、こういう話について、実際に衣食を得ながら、どのように修行を行っていくべきか?というのは、いつの時代でも問われたことです。もちろん、現代でも同様だといえましょう。喜捨の観念が乏しい日本であれば尚更問われることになりました。一例として、既に、拙ブログでは何度か指摘したかもしれませんが、道元禅師と或る弟子との会話に、このような物があります。
示に云く、学道の人、衣食を貪ることなかれ。人々皆食分あり、命分あり。非分の食命を求むとも来るべからず。況んや学仏道の人には、施主の供養あり、常の乞食に比すべからず。常住物これあり、私の営みにもあらず。菓蓏・乞食・信心施の三種の食、皆是れ清浄食なり。その余の田商仕工の四種は、皆不浄邪命の食なり。出家人の食分にあらず。
『正法眼蔵随聞記』巻1-3
道元禅師はこのように述べて、「食分・命分」がそれぞれの人には具わっているので、衣食を貪ることがあってはならない、と指摘するのです。これは、転じて、当時の修行者が自らの衣食をどのように準備するか、かなりの深い悩みを持っていたことを物語っています。今は、僧侶個人の生活のみならず、宗教法人の経営という側面からも考えていかなくてはならないところですが、いつの時代も大変だったという風に理解出来れば、また別様の苦労の仕方があっても良いのかもしれません。
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問ふ、凡夫の行人はかならず衣食を須ゐる。これ小縁なりといへども、よく大事を弁ず。裸・?にして安からずは、道法いづくんぞあらん。
答ふ。行者に二あり。いはく、家と出家となり。その在家の人は、家業自由にして、餐飯・衣服あり。なんぞ念仏を妨げん。『木槵経』の瑠璃王の行のごとし。
その出家の人にまた三類あり。
もし上根のものは、草座・鹿皮、一菜・一菓なり。雪山の大士のごとき、これなり。
もし中根のものは、つねに乞食・糞掃衣なり。
もし下根のものは、檀越の親施なり。ただ少し得るところあれば、すなはち足るを知る。
『往生要集(下)』
要するに、凡夫の修行者は、修行を行うにあたり、必ず衣食を用いなくてはならない、僅かなことであっても、大事の成就を分けてしまうといっています。つまり、修行の時、衣食に事欠いてしまったならば、仏法を修行することは、どのようにして可能なのか?と聞いているわけです。
それに対して源信の答えは、行者には「家(在家)と出家」とがあるとしています。そして、在家の人は、その生業は自由であって、食事も衣服もあるから、念仏修行を行うのに妨げは無いとしています。問題は、出家の方です。出家には上中下という機根の違いを挙げながら、上根の者は、極めて少ない食事・衣服で済んでしまうので、他人との関わりが無くても良いということになるのでしょう。中根の者は、自ら乞食を行い、糞掃衣を作るということで、これはいわゆる世俗にて必要とされない衣食を戴きながら生きることになるので、消費物は少ないといえましょう。問題は下根ですが、檀越からの「親施」であるとしています。要するに、在家信者からの多額の布施をもって、その身を支えるということです。然るに、源信は「少欲知足」を説いて、親施を得る時の注意点を指摘しているといえましょう。
そして、そのようにして自らの身を支えながら、修行(同著の場合には念仏)を行うべきだと考えているわけです。
実際、こういう話について、実際に衣食を得ながら、どのように修行を行っていくべきか?というのは、いつの時代でも問われたことです。もちろん、現代でも同様だといえましょう。喜捨の観念が乏しい日本であれば尚更問われることになりました。一例として、既に、拙ブログでは何度か指摘したかもしれませんが、道元禅師と或る弟子との会話に、このような物があります。
示に云く、学道の人、衣食を貪ることなかれ。人々皆食分あり、命分あり。非分の食命を求むとも来るべからず。況んや学仏道の人には、施主の供養あり、常の乞食に比すべからず。常住物これあり、私の営みにもあらず。菓蓏・乞食・信心施の三種の食、皆是れ清浄食なり。その余の田商仕工の四種は、皆不浄邪命の食なり。出家人の食分にあらず。
『正法眼蔵随聞記』巻1-3
道元禅師はこのように述べて、「食分・命分」がそれぞれの人には具わっているので、衣食を貪ることがあってはならない、と指摘するのです。これは、転じて、当時の修行者が自らの衣食をどのように準備するか、かなりの深い悩みを持っていたことを物語っています。今は、僧侶個人の生活のみならず、宗教法人の経営という側面からも考えていかなくてはならないところですが、いつの時代も大変だったという風に理解出来れば、また別様の苦労の仕方があっても良いのかもしれません。
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