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損翁宗益禅師『坐禅箴弁話』参究(8)

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前回見た【(7)】では、江戸時代に確立された正伝の坐禅を参究するために、損翁宗益禅師(1649〜1705)の『永平正法眼蔵坐禅箴損翁和尚弁話(以下、『弁話』と略記)』から、中国曹洞宗の宏智正覚禅師『坐禅箴』の提唱を見てきたのですが、今回もその続きになります。

  水清うして底に徹す、魚行いて遅遅たり。
 水もほとりが無く、空なる水を清しというのである。この水に遊ぶ魚は、行く時に、どこへ行っても行き定まることはない。浮かんでみても上が無く、沈んでも底がない。これはまさに法界の姿がこのようなものなのである。坐禅をする時にも、魚が行くように、幾万里ということが極まらないようにすべきである。
 大空も法界のようなものである。ここで飛ぶ鳥は、飛んでいながら飛ばないようなものである。突き詰めて言うとすれば、大空を飛ぶとき、鳥も飛ぶと心得るべきである。この心をよくよく味わうべきである。
 不思量のところとは、縁に対しないところである。手を付けることが出来ない焼け石のような、火炎の中のようなものである。僅かも分別を入れて、手を付けるときには、全体を焼却してしまうのである。
 縁に対せずして照らすというのは、不思量にして思量することである。無分別の知である。草木も人間も動物も、ともに分けて見るのは誤りである。また、同じだと見るのも誤りである。虚もなく実もなく、何ごとも皆虚であり、また実である。虚実、ともに定めは無いのである。定めないのは、今日の心である。定めないのは、今日の身である。定めないのは、今日の世界である。「定めないからこそ、世は面白い」と、人も言っている。
 水の清きは大法に譬え、魚を修行の人に譬えるのである。夜から夜に至るまで、魚が水に遊ぶように、修行者も、勤行の時だけ勤行するのだと思わず、寝ても覚めても、絶え間なく、限界が見えず、手が付けられず、理が極まることがないところに遊ぶべきである。
    拙僧ヘタレ訳

『坐禅箴』では、意外と道元禅師と宏智禅師との違いがハッキリします。とはいえ、それは両者全く異なっているのではなくて、道元禅師の見解が、宏智禅師の見解を受け、包括的に発展していると見るべきでしょう。分からない方もおられると思うので、部分的に違いがハッキリする最初と最後を比べてみます。

〈宏智〉事に触れずして知り、縁に対せずして照らす。
〈永平〉不思量にして現じ、不回互にして成ず。

〈宏智〉水清うして底に徹り、魚行いて遅遅たり。
    空闊うして涯り莫く、鳥飛んで杳杳たり。
〈永平〉水清うして地に徹す、魚行いて魚に似たり。
    空闊うして天に透る、鳥飛んで鳥の如し。

どうでしょう?かなり違いますね。まず、宏智禅師は、「事」「縁」という、我々の眼前にある「事象」に対して、「知−照」という観照的態度でもって、この『坐禅箴』が展開されています。ところが道元禅師は、その「事象」が既に「知−照」という「対象化機能」にとっての「対象」を突破し、ただの現れとして、「現−成」という回路を開いています。しかも、受動−能動を超えた、絶対待の「能動」であり、現れが即普遍的な仏法の道理に直結するだけの躍動感と、茫々とした開けを持っています。底が知れないのです。まさに、現成世界とは、「尽十方界真実人体」です。

そして、末の部分ですが、水が清ければ、その底まで透き通っているといい、それは法界が清浄であることを示す言葉となっています。ですので、法界の中で魚は、いくら動いてみたところで、「遅々なる泳ぎ」になってしまいます。或いは、空も広いだけ広くて、やはり法界の如く涯際が無く、鳥が飛べば暗く遙かな様だとしているわけです。どこか、主体性が無いというのは、おそらくこれこそが宏智禅師の坐禅の特徴なのでしょう。ところが、こちらでも道元禅師は水が清く、「地」に徹するとしています。要するにこれは、水の存在性をただ法界の譬喩に用いているのではなくて、純粋に現象として捉えています。水が清ければ、その「外」に繋がるのです。「外」とは、「地」です。水の底、もし水がなければ「地」になります。よって、その「水」というのは、その中を泳ぐ魚の行為によって、初めて形成される制作論的空間なのです。空も同じです。空は「天」に透っています。「空」は、それが無くなれば「天」なのです。ただ、限り無いのではないわけです。よって、逆説的に、「空」であっても、鳥の飛ぶという行為に相即的に制作される空間です。

しかあるを、水をきわめ、そらをきわめてのち、水・そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにも、みちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。
    『正法眼蔵』「現成公案」巻

実のところ、道元禅師はこの「制作論的空間」を、「現成公案」巻の時から気付いています。逆に言えば、この「現成公案」巻の見解でもって、宏智禅師『坐禅箴』を書き直したと見るべきかもしれません。よって、道元禅師の坐禅とは、その記述も含めて、努めて行為論的・制作論的です。

その点、損翁禅師はといえば、直接その道元禅師に見える行為論的・制作論的な文脈を用いているわけではありません。ただ、観照的記述に留まりがちな宏智禅師の見解を、少しでも乗り越えようとする意図は明らかに見ることが出来ます。要するに、法界が無限の広さであることと、修行者の修行とを対比させつつ、修行者の修行をもまた、無限の継続に誘う努力が見られるのです。つまり、常に我々自身の見解には現れてこない、「手の付かぬところ」、これは「無分別」或いは「不思量」と言い換えても良いのですが、その「無分別」を能動的に記述し、結果的に我々自身の修行もまた、「分別せず」に、徹底して行わねばならぬという提唱・示誡に繋がるのです。修行継続の動機を、外的な絶対者に置くのではなく、自らに極近いところにあって、しかも、それとして覚知出来ない仏法に促されているといえましょう。これは、いわゆる「内在的仏性」などという議論とも全く違います。

これで、損翁禅師による宏智『坐禅箴』への提唱は終わり、後は結論として、自身の坐禅観が表明されます。

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これまでの読み切りモノ〈曹洞宗6〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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