前回見た【(9)】では、江戸時代に確立された正伝の坐禅を参究するために、損翁宗益禅師(1649〜1705)の『永平正法眼蔵坐禅箴損翁和尚弁話(以下、『弁話』と略記)』から、損翁禅師自身の坐禅観を見てきたのですが、今日もその続きで、この連載は最終回になります。
大寺院・名伽藍の住職であるからと、坐禅を行わないのは、祖師の御心にも背くべきことになる。人のための慈悲の心が無いだけではなく、仏心宗を相続できないのである。末世の過というべきである。
だからこそ、心有る者は、庵に身を安じて、来客も稀であるといっているのは、とても良いことだ。
ましてや、坐禅する人を見て、色々と誹謗などすれば、誠に大罪を犯すこととなる。
仏も言われているではないか、「2人の罪人がいる。1人は、三千大千世界の衆生を悉く殺してしまった。1人は、坐禅の人を罵倒し誹謗した。2人の罪は、どちらが重いだろうか。
坐禅の人を罵倒し誹謗すれば、三千大千世界の衆生を悉く殺す者よりも、(罪が)重いのである」と。
図り知るべきである。坐禅の功徳は、まことに不可思議なることを。そうであれば、真実の人であれば、坐禅するのを見たならば、礼拝恭敬し、随喜して讃歎すべきなのである。
だからこそ、馬祖大師は、大梅禅師が山奥で独り庵を結んで坐禅するのを見て、馬祖大師自ら山奥に分け入り、大梅禅師の髪を剃らせてもらったのである。馬祖大師のお志は、誠に有り難いことである。
仏心宗を知る者は、皆この様子である。仏心宗を行じ、相続する者は、この様子である。仏心宗の鑑にすべきである。もし、身に行わなければ、これを知って忘れるべきではない。草も草に似て、人も人に似て、似たり似たりして、あっちにもこっちにも、実には窮まらないのである。
迷いもこのような様子だが、迷いの間は、「これが男、これが女、これは白、これは黒」と、決めて見てしまう誤りがある。「如来」という名前も、「窮めぬこと」を意味しているのだ。「如」に来るというのだから、あのように、このようにとして、これ皆「如如」のところであるし、「如如」と談じるのである。窮まることがない「如如」の本当の意味を知らないから、何やら(概念で)落ち着け窮めてしまおうとするのである。
この誠に依って修行することを、法体といい、出家というのである。
それについて、何かと道理を付けて、悟りといってみたり、迷いといってみたりする、これを「在家の凡俗」というのである。法界のほとり無きを目当てとして勤めるから、我が方もこのように、向こうの方もあのように、如如の本体なのである。この如如の本体に叶えば、この身は今日、仏の境涯であり、直ちに凡聖迷悟を超越するのである。
この意旨を、仏々祖々は、「秘密蔵」として、展開して、授受してきたのである。これを坐禅の面目・骨髄(という真実の姿)とするのである。
拙僧ヘタレ訳
前回の記事の時にも見ましたが、損翁禅師は坐禅に関する様々な事例を用いながら、この坐禅修行と悟りと伝燈とが、どのように連関しているかを明示しようとしています。その前に、上記の文章で述べられている事柄を、上から順番に、1つ1つ見ていきましょう。まず、「住職が坐禅をしないこと」ですけれども、以前、【仏法嫌いの住職の行く末について】という記事で、鈴木正三の見解に基づきながら、当時檀家が寺に修行に来るのを疎ましく思っていた住職の「哀れな末路」を紹介しましたが、損翁禅師にも似たような指摘があると思うと、当時一般的だったのかもしれません。
坐禅する人を誹謗する罪の重大さに関する「2人の罪人」の話ですけれども、出典は道元禅師の『永平広録』巻7-482上堂になります。「仏言く『二人の罪人有り。謂く、一人は三千大千世界の衆生殺し、一人は大智慧を得て坐禅の人を罵謗す。二人の罪、何れの者が是れ重し』と。仏言く『坐禅の人を毀謗するは、猶お三千大千世界衆生を殺すに勝れり』」というものですが、この話の直接の出典は分からず、似たような文脈が中国の南嶽慧思が著した『諸法無諍三昧法門(下)』に「如し三千世界の人、及び諸の一切衆生の類を殺すも、高心にして禅を謗じ衆を壊乱すれば、其の罪、ここに甚だ重過せり」という偈に読まれています。一応、南嶽慧思は、この偈を「仏説」だとしているので、道元禅師も「仏言く」としたのでしょう。しかし、実際には両者の文章には随分と違いがありますので、道元禅師は、現存しない別の文献を見た可能性は残ります。とはいえ、この一節を引いて、坐禅の功徳と、坐禅人の功徳を讃歎していることが肝心です。我々にとっては、仏説なのです。
それから、馬祖が大梅禅師の髪を剃った話ですが、全体としては「馬祖即心即仏」の話として有名ですけれども、これですと馬祖自身が髪を剃りに行ったのではなくて、弟子の1人を派遣したはずですので、髪を剃ったという話自体は、『永平広録』巻9-頌古71や、『正法眼蔵』にも引用されている、雪峰義存と一庵主の話が合揉されているのでしょう。
雪峰の真覚大師の会に一僧ありて、山のほとりにゆきて、草をむすひて庵を卓す。とし、つもりぬれど、かみをそらざりけり。庵裏の活計、たれかしらん、山中の消息、悄然なり。〈以下略〉
「道得」巻
さて、損翁禅師の話の結論は、やはり「手の付かぬところ」を如何にして坐禅していくか?ということに尽きます。その「手の付かぬところ」とは、「如」としか表現しようがないので、「如来」或いは「如如」とされているのです。「如」というのは、道元禅師『坐禅箴』の最後に一句に見える「鳥飛んで鳥の如し」の「如」にも通じて、あくまでも、「鳥は鳥だ」という執着的表現の上でいわれているのではなくて、「〜の如し」になるわけです。或いは、六祖慧能が南嶽懐譲を印可した際の、「汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是」の「如是」にも通じてきます。拙ブログではいつも申し上げていることですが、この時の「如是」というのは、現実の具象性に於ける「相似」或いは「同一性」を意味しているのではないわけです。あくまでも、この損翁禅師が仰るところの「手の付かぬところ」、要は無分別を「是」として、「是の如し」といっているわけです。ですから、この「如是」の中で、あらゆる相対概念は破斥され、結果的に迷悟・凡聖を超越して、まさに「如来」となる道理のみが現前するといえます。
この道理の中に於いて修行するからこそ、我々自身の修行は直ちに悟りとなり、修証という二見もまた超越し尽くして、仏行としての「坐禅」が高揚されるといえるのです。損翁禅師はそれを「秘密蔵」として、歴代の仏祖が伝えてきたと述べています。顕わにされていながら、常に「秘密」としてしか伝えられない、それが坐禅の真義といえます。何故ならば、これは安易に言葉に出来ることではなく、自らの身心を奮って実修実証せざるを得ないからです。ですので、議論し尽くせば、後は坐るしかない。その単純なる事実の前に、あらゆる言葉も概念もその効力を失うのです。まさに「如!」。
ということで、全10回に渡って紹介してきた損翁宗益禅師提唱『坐禅箴弁話』ですが、今日で最終回となります。損翁禅師という方は、弟子の面山瑞方師が、いわゆる曹洞宗の宗学を組織化していく直前に生きた人ですが、残された教えを見てみると、面山師は損翁禅師による組織化の実績を受け、その後を更に推し進めて徹底化した人だともいえます。その組織化とは、つまり禅宗一般の教えや、中国伝来の教えに依拠するのではなくて、それらを道元禅師の教えによって「批判=吟味」してから、自らに受け容れていくということです。自分が学んできた、他の教えで道元禅師を判ずるのではなく、その逆です。この開始地点こそ、損翁−面山という師資に置かれるべきだといえましょう。『坐禅箴弁話』にも、その様子を十分に見ることが出来ます。よって、ここから、曹洞宗は一気に「近代」にまで繋がっていくのです。時代的にはまだ近世でしたが、かなり先取りしています。実際のところ、近代、そして現代に至っても、曹洞宗学の研究法は、この時代に確立されたモノと、装置自体は変わっていません。道具立てや精度は格段の進歩を見せていますし、どうしても、「業績」を誇張宣伝する嫌いがある一部の研究者は、独自の説だと思っている節もありますが、実際には、この時代と変わっていません。損翁禅師が面山師に告げた「格率」である「永祖の面を見て、他の面を見ざれ」とは、まさにシンプルながら、新たな時代の宗学を切り開く言葉でもあったのです。曹洞宗はそれを、1700年代初頭に達成しているのです。それも、仙台にある寺院に住持していた1人の僧によって。
もう、来年度の臘八摂心のネタも考えています。損翁禅師を採り上げたので、弟子の面山師『自受用三昧』辺りを採り上げてみようかな?と漠然と考えていますが、来年までにもっと適した文献などがあれば、そちらにしますし、時期はどうであっても『自受用三昧』は一度、必ず見ていきたいと思っていますので、その時をお待ちください。明日からは、また普通の仏教系記事になります。
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大寺院・名伽藍の住職であるからと、坐禅を行わないのは、祖師の御心にも背くべきことになる。人のための慈悲の心が無いだけではなく、仏心宗を相続できないのである。末世の過というべきである。
だからこそ、心有る者は、庵に身を安じて、来客も稀であるといっているのは、とても良いことだ。
ましてや、坐禅する人を見て、色々と誹謗などすれば、誠に大罪を犯すこととなる。
仏も言われているではないか、「2人の罪人がいる。1人は、三千大千世界の衆生を悉く殺してしまった。1人は、坐禅の人を罵倒し誹謗した。2人の罪は、どちらが重いだろうか。
坐禅の人を罵倒し誹謗すれば、三千大千世界の衆生を悉く殺す者よりも、(罪が)重いのである」と。
図り知るべきである。坐禅の功徳は、まことに不可思議なることを。そうであれば、真実の人であれば、坐禅するのを見たならば、礼拝恭敬し、随喜して讃歎すべきなのである。
だからこそ、馬祖大師は、大梅禅師が山奥で独り庵を結んで坐禅するのを見て、馬祖大師自ら山奥に分け入り、大梅禅師の髪を剃らせてもらったのである。馬祖大師のお志は、誠に有り難いことである。
仏心宗を知る者は、皆この様子である。仏心宗を行じ、相続する者は、この様子である。仏心宗の鑑にすべきである。もし、身に行わなければ、これを知って忘れるべきではない。草も草に似て、人も人に似て、似たり似たりして、あっちにもこっちにも、実には窮まらないのである。
迷いもこのような様子だが、迷いの間は、「これが男、これが女、これは白、これは黒」と、決めて見てしまう誤りがある。「如来」という名前も、「窮めぬこと」を意味しているのだ。「如」に来るというのだから、あのように、このようにとして、これ皆「如如」のところであるし、「如如」と談じるのである。窮まることがない「如如」の本当の意味を知らないから、何やら(概念で)落ち着け窮めてしまおうとするのである。
この誠に依って修行することを、法体といい、出家というのである。
それについて、何かと道理を付けて、悟りといってみたり、迷いといってみたりする、これを「在家の凡俗」というのである。法界のほとり無きを目当てとして勤めるから、我が方もこのように、向こうの方もあのように、如如の本体なのである。この如如の本体に叶えば、この身は今日、仏の境涯であり、直ちに凡聖迷悟を超越するのである。
この意旨を、仏々祖々は、「秘密蔵」として、展開して、授受してきたのである。これを坐禅の面目・骨髄(という真実の姿)とするのである。
拙僧ヘタレ訳
前回の記事の時にも見ましたが、損翁禅師は坐禅に関する様々な事例を用いながら、この坐禅修行と悟りと伝燈とが、どのように連関しているかを明示しようとしています。その前に、上記の文章で述べられている事柄を、上から順番に、1つ1つ見ていきましょう。まず、「住職が坐禅をしないこと」ですけれども、以前、【仏法嫌いの住職の行く末について】という記事で、鈴木正三の見解に基づきながら、当時檀家が寺に修行に来るのを疎ましく思っていた住職の「哀れな末路」を紹介しましたが、損翁禅師にも似たような指摘があると思うと、当時一般的だったのかもしれません。
坐禅する人を誹謗する罪の重大さに関する「2人の罪人」の話ですけれども、出典は道元禅師の『永平広録』巻7-482上堂になります。「仏言く『二人の罪人有り。謂く、一人は三千大千世界の衆生殺し、一人は大智慧を得て坐禅の人を罵謗す。二人の罪、何れの者が是れ重し』と。仏言く『坐禅の人を毀謗するは、猶お三千大千世界衆生を殺すに勝れり』」というものですが、この話の直接の出典は分からず、似たような文脈が中国の南嶽慧思が著した『諸法無諍三昧法門(下)』に「如し三千世界の人、及び諸の一切衆生の類を殺すも、高心にして禅を謗じ衆を壊乱すれば、其の罪、ここに甚だ重過せり」という偈に読まれています。一応、南嶽慧思は、この偈を「仏説」だとしているので、道元禅師も「仏言く」としたのでしょう。しかし、実際には両者の文章には随分と違いがありますので、道元禅師は、現存しない別の文献を見た可能性は残ります。とはいえ、この一節を引いて、坐禅の功徳と、坐禅人の功徳を讃歎していることが肝心です。我々にとっては、仏説なのです。
それから、馬祖が大梅禅師の髪を剃った話ですが、全体としては「馬祖即心即仏」の話として有名ですけれども、これですと馬祖自身が髪を剃りに行ったのではなくて、弟子の1人を派遣したはずですので、髪を剃ったという話自体は、『永平広録』巻9-頌古71や、『正法眼蔵』にも引用されている、雪峰義存と一庵主の話が合揉されているのでしょう。
雪峰の真覚大師の会に一僧ありて、山のほとりにゆきて、草をむすひて庵を卓す。とし、つもりぬれど、かみをそらざりけり。庵裏の活計、たれかしらん、山中の消息、悄然なり。〈以下略〉
「道得」巻
さて、損翁禅師の話の結論は、やはり「手の付かぬところ」を如何にして坐禅していくか?ということに尽きます。その「手の付かぬところ」とは、「如」としか表現しようがないので、「如来」或いは「如如」とされているのです。「如」というのは、道元禅師『坐禅箴』の最後に一句に見える「鳥飛んで鳥の如し」の「如」にも通じて、あくまでも、「鳥は鳥だ」という執着的表現の上でいわれているのではなくて、「〜の如し」になるわけです。或いは、六祖慧能が南嶽懐譲を印可した際の、「汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是」の「如是」にも通じてきます。拙ブログではいつも申し上げていることですが、この時の「如是」というのは、現実の具象性に於ける「相似」或いは「同一性」を意味しているのではないわけです。あくまでも、この損翁禅師が仰るところの「手の付かぬところ」、要は無分別を「是」として、「是の如し」といっているわけです。ですから、この「如是」の中で、あらゆる相対概念は破斥され、結果的に迷悟・凡聖を超越して、まさに「如来」となる道理のみが現前するといえます。
この道理の中に於いて修行するからこそ、我々自身の修行は直ちに悟りとなり、修証という二見もまた超越し尽くして、仏行としての「坐禅」が高揚されるといえるのです。損翁禅師はそれを「秘密蔵」として、歴代の仏祖が伝えてきたと述べています。顕わにされていながら、常に「秘密」としてしか伝えられない、それが坐禅の真義といえます。何故ならば、これは安易に言葉に出来ることではなく、自らの身心を奮って実修実証せざるを得ないからです。ですので、議論し尽くせば、後は坐るしかない。その単純なる事実の前に、あらゆる言葉も概念もその効力を失うのです。まさに「如!」。
ということで、全10回に渡って紹介してきた損翁宗益禅師提唱『坐禅箴弁話』ですが、今日で最終回となります。損翁禅師という方は、弟子の面山瑞方師が、いわゆる曹洞宗の宗学を組織化していく直前に生きた人ですが、残された教えを見てみると、面山師は損翁禅師による組織化の実績を受け、その後を更に推し進めて徹底化した人だともいえます。その組織化とは、つまり禅宗一般の教えや、中国伝来の教えに依拠するのではなくて、それらを道元禅師の教えによって「批判=吟味」してから、自らに受け容れていくということです。自分が学んできた、他の教えで道元禅師を判ずるのではなく、その逆です。この開始地点こそ、損翁−面山という師資に置かれるべきだといえましょう。『坐禅箴弁話』にも、その様子を十分に見ることが出来ます。よって、ここから、曹洞宗は一気に「近代」にまで繋がっていくのです。時代的にはまだ近世でしたが、かなり先取りしています。実際のところ、近代、そして現代に至っても、曹洞宗学の研究法は、この時代に確立されたモノと、装置自体は変わっていません。道具立てや精度は格段の進歩を見せていますし、どうしても、「業績」を誇張宣伝する嫌いがある一部の研究者は、独自の説だと思っている節もありますが、実際には、この時代と変わっていません。損翁禅師が面山師に告げた「格率」である「永祖の面を見て、他の面を見ざれ」とは、まさにシンプルながら、新たな時代の宗学を切り開く言葉でもあったのです。曹洞宗はそれを、1700年代初頭に達成しているのです。それも、仙台にある寺院に住持していた1人の僧によって。
もう、来年度の臘八摂心のネタも考えています。損翁禅師を採り上げたので、弟子の面山師『自受用三昧』辺りを採り上げてみようかな?と漠然と考えていますが、来年までにもっと適した文献などがあれば、そちらにしますし、時期はどうであっても『自受用三昧』は一度、必ず見ていきたいと思っていますので、その時をお待ちください。明日からは、また普通の仏教系記事になります。
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