我々曹洞宗の寺院は、古来から、(その規模は問わないが)道場の機能を持っていた場合が多い。これは、各地に於いて、様々な理由でお寺に子供が預けられ、結果的にそれらの子供を僧侶として育てた場合、或いは人格教育をしたことがあったからである。しかしながら、この「道場」として機能していた事実が、多分に、お寺と世俗を遠ざけている一因になっているのではないかと思う。日本仏教の宗派によっては、当初からお寺を、一般の世俗に生きる方に訪ねてくれるように開放している場合がある。しかしながら、禅宗寺院はそうではなかった。例えば、平安時代から鎌倉時代初期に活躍し、臨済宗を伝えた栄西禅師は、その主著の一つである『興禅護国論』で次のように述べる。
一に寺院、寺に大小の異ありと雖も、皆、一様に祇園精舎の図を模す〈寺の図は別にあり〉。四面に廊下有るも脇門無し、ただ一門を開く。而して監門人あって薄暮にこれを閉じ、天明にはこれを開く。特に比丘尼、女人並びに、雑人凶人の夜宿を制止するなり。仏法の滅亡はただ女事等に起こるが故なればなり。
「建立支目門 第八」
これは、『禅苑清規』などや、栄西禅師が注目で見聞してきた寺院構造などに基づいて書かれているところであるけれども、ここからすれば、良くいわれる「お寺はもっと世間に開くべきだ」というような発想は、微塵も含まれていないことが分かる。むしろ、女性などは退けられ、非常に排他的な場所だったことが分かる。その意味では、栄西禅師の僧団には女性の修行者はおられなかったのだろう。むしろ、修行の邪魔になる、仏法の滅亡の原因になるとばかりのいいようである。今風の見解をもってすれば、女性に問題があるのではなくて、男性側の心持ちの問題なんだから・・・と許容してしまいたくなるところだが、栄西禅師は直接的・物理的に女性を排除することによって、叢林の軌範を維持しようとしたのだろう。
この点、道元禅師は明確に違っていて、『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻を見れば分かるが、女性は叢林の中に、一修行者としていた事例を挙げながら、男性か女性かという違いではなくて、修行しているか、否かという観点が重要だと示されている。よって、修行に邁進している以上、男女が同じ屋根の下で修行していても、間違いは起こるまい、という発想なのだろう。その意味で、むしろ栄西禅師の方が、律などには忠実だった印象を受ける。例えば、瑩山禅師が『伝光録』で、「又東林恵敞和尚の宗風、栄西僧正相嗣して、黄龍八世として、宗風を興さんとして、興禅護国論等を作て奏聞せしかども、南都北京より礙へられて、純一ならず。顕密心の三宗を置く」(第51章)のように指摘され、どうしても「純粋禅」から遠かったという印象ばかりが先行するが、それはそれとして、栄西禅師の修行の内容はもう少し検討した方が良さそうだ。
栄西禅師はまた、物理的制約を強調するために、門は1つで、さらにその開閉は厳しく行われるべきであるとした。よって、稀に「午後4時でお寺の門が閉まる」などと文句をいう者はいるが、その者の批判はどう扱うべきか困る。この者の批判の影には、「お寺は今、檀信徒へのサービスで成立しているのだから、公共性を第一にすべきだ」という思いがあるように思われる。ところが、拙僧つらつら鑑みるに、これは余りといえば余りに、都合が良すぎるように思われる。
そうであれば、お寺が檀信徒サービスを前面に押し出すことを目指すため、お寺は修行の場としての機能を喪失させるべきであるし、それなら、サービス力さえある人材がお寺にいるとすれば、妻帯しようと肉食しようと、どんな僧侶の形態だって許容されるべきである。そこまでいうのなら、栄西禅師の伝えた寺院管理の状況は、あくまでも一時代のもの、或いは一部寺院のためのもの、としてしまえば良いだけのことだ。
他にも寺院を「閉門」する理由として、「禁足」というのがある。禁足というのは、「護生禁足」と言い方が詳しくて、インドで雨期に外出すると、多くの小さな生物を殺してしまうというので、それを止めて、叢林に止まろうという話である。だから「生きものを護り、足(ある)くを禁ず」となるわけである。主として、3ヶ月(90日=九旬)を一単位として行われた。これからすれば、「僧侶がお寺に出て、社会活動すべきだ」「公益性を獲得せよ」なんていうのは、少なくとも1年間通じて行われるようなものではない、という話になる。
いはゆる半月前とは、三月下旬をいふ。しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧、ありきせず、諸方の接待、およひ諸寺の旦過、みな門を鎖せり。
『正法眼蔵』「安居」巻
これは、道元禅師が禅宗寺院で実践している「安居禁足」の制を解説しておられる箇所である。ここからも、4月1日から3ヶ月の間、外を出歩かない僧侶のあり方が指摘されている。以上のようなことを挙げつつ、拙僧自身思うところは、僧侶と社会との関わり方は、歴史的経緯を探っていけばいくほど、今の状況というのは、相当に「よくやっている」と思う。もちろん、何かあれば過重なサービスを行うことを期待されてしまうサービス業に比べれば、まだまだなのかもしれないし、拙僧自身の身内贔屓という視点もあることを自覚した上で申し上げるのだが、それでも、よくやっている。よって、拙僧的には、様々な批判者がいることは、残念だと思いつつも、それらの方々には、もっと歴史的経緯なども学んでいただき、その上で、寺院と世俗との関わり方を御提言いただければ、色々と幸せな状況が生まれてくるんじゃないのかな?なんて思ったのである。その一助として、拙ブログでは様々な情報の開示を怠らないようにしたい。こういう、不定期連載記事も、情報開示の手段の1つである。
【道元禅師と檀信徒について(お寺と世俗7)】
【町の八百屋としてのお寺(お寺と世俗6)】
【仏教と物語を考える(お寺と世俗5)】
【雑誌『SPA』「[お寺ビジネス]最前線」について(お寺と世俗4)】
【アジールとしての寺院(お寺と世俗3)】
【元始、お寺は武富士だった(お寺と世俗2)】
【お寺と世俗】
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一に寺院、寺に大小の異ありと雖も、皆、一様に祇園精舎の図を模す〈寺の図は別にあり〉。四面に廊下有るも脇門無し、ただ一門を開く。而して監門人あって薄暮にこれを閉じ、天明にはこれを開く。特に比丘尼、女人並びに、雑人凶人の夜宿を制止するなり。仏法の滅亡はただ女事等に起こるが故なればなり。
「建立支目門 第八」
これは、『禅苑清規』などや、栄西禅師が注目で見聞してきた寺院構造などに基づいて書かれているところであるけれども、ここからすれば、良くいわれる「お寺はもっと世間に開くべきだ」というような発想は、微塵も含まれていないことが分かる。むしろ、女性などは退けられ、非常に排他的な場所だったことが分かる。その意味では、栄西禅師の僧団には女性の修行者はおられなかったのだろう。むしろ、修行の邪魔になる、仏法の滅亡の原因になるとばかりのいいようである。今風の見解をもってすれば、女性に問題があるのではなくて、男性側の心持ちの問題なんだから・・・と許容してしまいたくなるところだが、栄西禅師は直接的・物理的に女性を排除することによって、叢林の軌範を維持しようとしたのだろう。
この点、道元禅師は明確に違っていて、『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻を見れば分かるが、女性は叢林の中に、一修行者としていた事例を挙げながら、男性か女性かという違いではなくて、修行しているか、否かという観点が重要だと示されている。よって、修行に邁進している以上、男女が同じ屋根の下で修行していても、間違いは起こるまい、という発想なのだろう。その意味で、むしろ栄西禅師の方が、律などには忠実だった印象を受ける。例えば、瑩山禅師が『伝光録』で、「又東林恵敞和尚の宗風、栄西僧正相嗣して、黄龍八世として、宗風を興さんとして、興禅護国論等を作て奏聞せしかども、南都北京より礙へられて、純一ならず。顕密心の三宗を置く」(第51章)のように指摘され、どうしても「純粋禅」から遠かったという印象ばかりが先行するが、それはそれとして、栄西禅師の修行の内容はもう少し検討した方が良さそうだ。
栄西禅師はまた、物理的制約を強調するために、門は1つで、さらにその開閉は厳しく行われるべきであるとした。よって、稀に「午後4時でお寺の門が閉まる」などと文句をいう者はいるが、その者の批判はどう扱うべきか困る。この者の批判の影には、「お寺は今、檀信徒へのサービスで成立しているのだから、公共性を第一にすべきだ」という思いがあるように思われる。ところが、拙僧つらつら鑑みるに、これは余りといえば余りに、都合が良すぎるように思われる。
そうであれば、お寺が檀信徒サービスを前面に押し出すことを目指すため、お寺は修行の場としての機能を喪失させるべきであるし、それなら、サービス力さえある人材がお寺にいるとすれば、妻帯しようと肉食しようと、どんな僧侶の形態だって許容されるべきである。そこまでいうのなら、栄西禅師の伝えた寺院管理の状況は、あくまでも一時代のもの、或いは一部寺院のためのもの、としてしまえば良いだけのことだ。
他にも寺院を「閉門」する理由として、「禁足」というのがある。禁足というのは、「護生禁足」と言い方が詳しくて、インドで雨期に外出すると、多くの小さな生物を殺してしまうというので、それを止めて、叢林に止まろうという話である。だから「生きものを護り、足(ある)くを禁ず」となるわけである。主として、3ヶ月(90日=九旬)を一単位として行われた。これからすれば、「僧侶がお寺に出て、社会活動すべきだ」「公益性を獲得せよ」なんていうのは、少なくとも1年間通じて行われるようなものではない、という話になる。
いはゆる半月前とは、三月下旬をいふ。しかあれば、三月内にきたり掛搭すべきなり。すでに四月一日よりは、比丘僧、ありきせず、諸方の接待、およひ諸寺の旦過、みな門を鎖せり。
『正法眼蔵』「安居」巻
これは、道元禅師が禅宗寺院で実践している「安居禁足」の制を解説しておられる箇所である。ここからも、4月1日から3ヶ月の間、外を出歩かない僧侶のあり方が指摘されている。以上のようなことを挙げつつ、拙僧自身思うところは、僧侶と社会との関わり方は、歴史的経緯を探っていけばいくほど、今の状況というのは、相当に「よくやっている」と思う。もちろん、何かあれば過重なサービスを行うことを期待されてしまうサービス業に比べれば、まだまだなのかもしれないし、拙僧自身の身内贔屓という視点もあることを自覚した上で申し上げるのだが、それでも、よくやっている。よって、拙僧的には、様々な批判者がいることは、残念だと思いつつも、それらの方々には、もっと歴史的経緯なども学んでいただき、その上で、寺院と世俗との関わり方を御提言いただければ、色々と幸せな状況が生まれてくるんじゃないのかな?なんて思ったのである。その一助として、拙ブログでは様々な情報の開示を怠らないようにしたい。こういう、不定期連載記事も、情報開示の手段の1つである。
【道元禅師と檀信徒について(お寺と世俗7)】
【町の八百屋としてのお寺(お寺と世俗6)】
【仏教と物語を考える(お寺と世俗5)】
【雑誌『SPA』「[お寺ビジネス]最前線」について(お寺と世俗4)】
【アジールとしての寺院(お寺と世俗3)】
【元始、お寺は武富士だった(お寺と世俗2)】
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