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山門の門扉と「八字」について

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昨年のことですが、拙寺がある宮城県栗原市内にある、同じ曹洞宗寺院にて、晋山結制式が修行されたので、拙僧も随喜させていただきました。新命和尚さま、そして、檀信徒の皆さま、本当におめでとうございます(^人^)

さて、その時、拙僧は導師の方々などを、本堂の真ん中まで送り迎えする「送迎」という役を頂戴していたのですが、それをしている時に、或ることをフッと思い出していました。それは、「山門法語」についてです。

この「山門法語」というのは、特に「晋山式」にて用いられるものです。新しい住職となった人は必ず、寺院近くに儲けられた「安下処」という休憩所から出て、お寺まで歩き、そして、寺に祀られている、本尊様を始めとして開山和尚や歴代の住職、諸天善神に挨拶を申し上げるのですが、その時、寺に着いて最初に唱えるのが「山門法語」です。最初に寺に踏み入れる、その想いなどを漢詩に托して、山門で読み上げるのです。

山門に云く、「大解脱門、八字に打開し、一超直入す。左右を顧視して云く、這裏従り来る」と。
    『普済善救禅師語録』

このように、「山門法語」には、定型句らしきものがありまして、それは「八字に打開す」というものです。この「八字に打開す」という言葉ですが、本来の意味としては、山門の門扉が左右にパッと開くと、それを上から見ると「八の字」になっていることを指していう言葉です。ここから、「仏道に入ったこと」や「悟りへの路に入ったこと」などを意味する言葉といえます。ところで、拙僧或る時、或る御老師から、「天神君よ、もし門扉が無い山門に対して、「八字に打開す」とか詠んだらおかしくないか?」と指摘されたのであります。

拙僧、色々と考えましたが、確かにこれはおかしいということを思ったわけです。これは、門扉があるお寺さんで詠むからこそ、その意味も通り、その門扉の様子を見た人が、文字通り自らの問題として「八字に打開す」ることが出来たのだろうとも思うのです。或る意味、雪の降らない地域で、雪を問答しても意味が無いように、この語句も、使える場所は限られているようです。道元禅師はかつて、次のように仰っています。

夫れ説法は、直に須らく応時応節なるべし。若し応ぜざる時は、総て是れ非時閑語なり。
    『永平広録』巻3-244上堂

説法というのは、時節に応じたものではなくてはならず、もしそれが出来ないのならば、「閑語=無駄な言葉」だというわけです。よって、やはり「山門法語」というのは、最初であるだけに気を遣った方が良いだろう、とか思うわけです。拙寺は、仁王門ではありますが、門扉は当初から無かったそうなので、常に開きっぱなしです。ですので、「八字に打開す」は使わない方が無難のような気がします。

拙僧が、それをする日が何時来るか分かりませんが、その日のために、色々と考えておきましょう。

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