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今日は道元禅師の降誕会です(平成23年度版)

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今日は高祖降誕会、つまり曹洞宗の大本山永平寺御開山・高祖道元禅師がお生まれになった日と定められています。この「定める」という表現ですが、道元禅師の生まれた日は、詳しく分かっていないためで、何かの機会に、「1月2日」と決められ、しかもそれは正治2年(1200)であるから、旧暦から新暦に改めて、この日に固定してしまおうと決められてしまったわけです。

それは、明治33年(1900)に決めました。この経緯には、幾つかの伏線もありまして、前年道元禅師生誕700年の記念法要を2月11日に修行し、お祝いしています。おそらく、釈尊降誕会(花まつり)を貴重な例外として、それまで祖師方の誕生日を祝う習慣は、曹洞宗にはなかったと思うのですが、キリスト教の伸張や、神道路線をひた走る政府のあり方を見ながら、寺院に於ける「イベント」を開く機会を探したものと思われます。

先達の苦労が偲ばれ、児孫としてただただ恭敬礼拝するのみでございます。よって、拙ブログでもそのことを採り上げてみようと思うわけです。

ここ数年、道元禅師がお生まれになった状況などは繰り返し記事にしたという経緯もありますし、皆さんも飽きているのではないかと思いますけど、どうしましょうか?とはいえ、代替案もあるわけで無し、例年に近い状況で書いてみましょうか。

つまり、江戸時代以前に書かれた伝記を現代語訳してお伝えするという話です。もう、門人集記『三祖行業記』も瑩山禅師提唱『伝光録』も書いてしまいましたがそれらと同じくらい古い『洞谷記』を題材にしてみましょうか。

 曽祖、越前吉祥山永平寺開山和尚、諱は道元、洛陽の人。姓は源氏、村上天皇の後裔、後中書王の遺胤。
 初生の時、相師、見て云く、「七処平満、骨相奇秀、眼に重瞳有り、この児、凡に非ず、必ず是れ聖子となるべし。古書に云く、『聖子の誕ずる時、その母の命危うし、この児、七〜八歳の時、須らくその母を喪う」と。
 又た、自ら念うに、「この児懐胎の時、空中に声有りて、告げて曰く、『この児、五百年来、肩を双べるもの無き聖人となり、倭国に生を託して、正法を興行す』」と。相師の言に符合し、果たして八歳の冬、その母を喪う。
 母、遺命して云く、「汝、俗塵に混ずること勿れ、出家して学道すべし」と。
 しかのみならず、四歳に『李嶠百詠』を読み、七歳に『左伝』『毛詩』を読み、九歳に世親の『倶舎論』を読む。古老名儒、碩学宿徳、讃じて曰く、「利なること文殊の如し、真の大乗の機なり」と。
 師、幼穉にして、耳底にこれ等の言を蓄積す。苦学して股を刺し、昼夜に痩を忘る。
    大乗寺流布本『洞谷記』「洞谷伝灯院五老悟則并行業略記」

『洞谷記』とは、瑩山禅師の自叙伝や洞谷山永光寺の開創の経緯を記した文献です。大乗寺で発見された古写本『洞谷記』には、上記に引用した「五老峰」に関する記述自体が無く、数回の編集がなされ、瑩山禅師寂後の経緯までも含むに至った『洞谷記』には、部分的に後代の表現や見解が含まれてしまっており、全てを肯うことは出来ない問題のある文献であります。とはいえ、上記に引用した箇所については、「大体こんな感じ」だと言ってしまって良いと思います。今日はこれから道元禅師がご生誕された様子を見ていきたいと思います。

さて、「曽祖」というのは、道元禅師が瑩山禅師からして、「曽祖父」の位置にあることを意味しています。つまり、「ひいお祖父さん」の位置ですね。父親から数えて3代前の人ですね。道元禅師−懐弉禅師−義介禅師−瑩山禅師と続くわけですから、この流れは明らかです。さて、吉祥山永平寺の開山である道元禅師は洛陽、つまり今の「京都市の中心地」生まれであります。「京都市」というと、範囲が広くなりすぎるので、かつての「平安京内」にて生まれたということです。第62代村上天皇の皇子である具平親王(後中書王)の子師房が寛仁4年(1020)に源朝臣の姓を賜わることで成り立つため「村上」の名を冠します。この一族には政治的にも文学的にも秀でた者が多く輩出されており、道元禅師はその村上源氏の一人として生まれたのです。

生まれた時、すぐに顔相占いの人に見せたところ、「7箇所が平らかで、骨の形も素晴らしく、瞳は二重になっています」としながら、必ず聖なる人になると断言されたのです。その上で、「古書」などの記述を参照しながら、そういう人を生んだ母親は命が危なく、7〜8歳には亡くなってしまうだろうといわれたのです。ところが、道元禅師のお母様にも思い当たることがありました。それは、懐妊したとき、空中から声が聞こえ「500年もの間肩を並べる者がない聖人となり、この日本にて正法を興行する」といわれていたのです。

この言葉を受けて、覚悟を決めていたのか、道元禅師8歳の冬にお母様が亡くなる時、遺言して、「世俗に混じってはならない、必ず出家して仏道を学ぶように」と想いを託されたのです。道元禅師は高尾山寺で行われたお母様の葬儀にて、立ち上る香煙を見ながら、無常を観じ、出家への志を深めたとされています。

まだ出家もしない状況で、或る意味独学(もしくは、家庭教師のような感じで僧侶の指導を受けていた可能性はあります)だったであろう道元禅師ですが、漢文を読むために必要な基礎的な文献の他に、世親の『倶舎論』などを読んでいます。これを見た、当時の優れた学者が「文殊のようだ」と讃え、更に「真に大乗の才能がある」とも述べています。『倶舎論』は元々説一切有部の論者であった世親が書いたものですが、同派への批判が入り、大乗仏教を学ぶ者にも読まれたのです。

なお、これらの言葉を深く心に留めつつ苦学された道元禅師は、錐でもって太ももを指したようです。この故事は、道元禅師以前にも良く知られたものであり、中国臨済宗の慈明楚円などにも同じような話が伝わっています。楚円は自ら錐で刺しながら、「嘆じて曰く、古人、生死事大の為に食べず寝ず。我、何人ならんや。而も縱ままに荒逸なり。生なるに時に益無く、死するに後に聞くこと無し。是、自棄なり」(『禅門宝訓』)と述べたとされています。

現状、我々が仏道を学ぶという時、結局は何かのついでに行っている人も多いのではないかと思います。在家の方は致し方ないと思いますが、せっかく仏縁をつないだのであれば、四六時中仏道を想い、その中で学びを進める生き方も良いと思います。

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これまでの読み切りモノ〈曹洞宗6〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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