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無念を正念といふは外道なり

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道元禅師には、只管打坐や本証妙修ばっかりで、修行階梯はないという人がいる。しかしどうだろう?実際のところは、三十七品菩提分法の開示を『正法眼蔵』にて行っていることからすれば、そこに修行階梯を見ていくべきであろう。その意味に於いて、八正道までもその体系に含む「三十七品菩提分法」巻の参究は、道元禅師の修行階梯を探るために必須であると言える。とはいえ、階梯といっても、現代の臨済禅とは違う。階梯無き階梯である。

さておき、今日はそんな大それた事を述べたいのではなくて、八正道に関する記載で興味深い一節があったので、それを見ていきたいというだけである。

無念はこれ正念といふは外道なり。
    「三十七品菩提分法」巻

これは、「八正道」の「正念道支」に見える一節である。良く、坐禅でもって無念無想になることが良いという人がいる。それこそ、在家の参禅者には多いし、稀に師家でもこう述べる人がいるという。しかし、無念無想になることが良いといっているということは、無念無想を「正念」と見なすこととなる。そして、道元禅師はそういう見解を「外道」と喝破するのである。外道というのは、仏道以外ということであって、曹洞宗の宗乗としてはあり得ない見解となる。なお、何故無念を正念と見なすことが外道になるかと言えば、道元禅師御自身以下のように述べておられる。

しるべし、仏道に念経僧ある事を。曹渓古仏の直指なり。この念経僧の念は、有念・無念等にあらず、有無倶不計〈有無倶に計せず〉なり。
    『正法眼蔵』「看経」巻

念経僧というのは、六祖慧能が示した経文を念じる者のことであり、修行方法の1つであるが、この念経僧の念とは有念・無念には関わらないという。理由は、まず道元禅師の現成概念自体が、有無を絶したところで進められていることが挙げられる。今ここにあり得ている事象は、有無を超えた絶対の有である。絶対の有である以上、それらを意識的に把握する機能である念について有無を問うことは、まさに戯論に堕する。

それに、無念というのは、一切の反応などを失ってしまい、坐禅をしているのはただの肉の塊になってしまうことを意味する。そして、それこそ外道である。

枯木死灰の談は、もとより外道の所教なり。しかあれども、外道のいふところの枯木と、仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし。外道は枯木を談ずといへども、枯木をしらず、いはんや龍吟をきかんや。外道は、枯木は朽木ならん、とおもへり、不可逢春〈春に逢うべからず〉と学せり。
    『正法眼蔵』「龍吟」巻

もしかすると、字義通りの「無念」と、在家の参禅者などが想定する「無念」というのは違うのかもしれない。この辺、禅定によほど通暁していないと判断などは難しいようで、以前【こんな雨の日には・・・】という記事でも採り上げたことがあったが、釈尊の禅定をどう見ていくかとして、議論になったことがあった。そして、農夫がショック死するほどの大音声であったという轟雷が鳴り響いても、平然としていた釈尊について、道元禅師は讃歎してこういった。

師云く「永平、敬って讃して言わく『有心想、入禅定。三十四心、計会。朝四暮三、用得、当中、及尽袋』」と。
    『永平広録』巻5−372上堂

特に注目したいのは、「有心想、入禅定」と、「三十四心、計会」である。前者については、心想がありながら、禅定に入るということである。釈尊の有り様を示した語といえる。「三十四心、計会」については、三十四心について世尊が菩提樹下にて明らかにされたという、八忍・八智・九無碍・九解脱の総称とされている。それに契うことを指している。つまり、入禅定の当体が、これらの悟りの内容を得たこととなる。忍に智に、無碍に解脱ということが、釈尊の悟りの内容である。粘りがある思考でありながら、とらわれがない明確なる智なのだ。忍だけでは執着を生む。無碍に解脱だけでは実際性がない。両方が具わらねばならぬのだ。

正念とは、そのような智の発現を生む念でなくてはならない。無念が当て嵌まらないことはいうまでもないことだ。

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