拙部屋、昨年10月より順次行われている整理事業、先日「第5次図書整理」を行ったところ、山内進氏の『十字軍の思想』(ちくま新書)を発見。2003年7月に発刊されたとのこと。古書ではないようなので、おそらくその時に買ったのでしょうが、完全に「積ん読・入れ読」状態だったようで、拙僧の記憶には、読んだ形跡がありません。
買った動機も今となっては思い出せないのですが、多分、その頃にはイスラームの歴史に興味があったということ、しかも、この場合には、明らかな「加害者側」であるキリスト教の論理というか、聖戦理由みたいなのを知ることで、逆にイスラーム側からの視点を獲得しようと思っていたのかも?自分でも、何言っているか良く分かりませんが・・・しかも、アルカイダのビンラディン氏もアメリカに殺害されたという報道もありますが、そういえばその時に、アメリカのオバマ大統領は、「正義の戦い」とかいっていましたっけ。
或る種の「聖戦」的なものか?と思っていたら、山内氏に依れば、「聖戦」と「正戦」とがあるとのこと。いわゆる「正義の戦い」的な文脈は「正戦」らしい・・・でも、それは『広辞苑』(岩波書店)にも載っていないし、或る種の学術用語なのでしょうかね。分かり易くいうと、「聖戦」は宗教的戦争論で、「正戦」は世俗的戦争論とのこと。
さておき、出て来たからには、読んでしまわねばなりません。新書なら1日も掛かりません(哲学書・思想書を除く)。読んでいると、色々と気になる話もございます。
ジハードは聖戦よりも広い概念である。それは、神に従えという神の命令への反応ではあるが、この場合の「反応」は武器への特殊な呼びかけを含まず、信仰への熱意に対する命令でしかない。ジハードとは本来、「ある目的のために払う努力」という意味である。
では、ジハードに聖戦の思想がないかといえば、これもそうではない。もし、ジハードの平和的側面だけを取り出して、イスラムの平和的性格だけを強調するなら、それはやはり一面的だろう。少なくとも、内外の敵に対して信仰を守るために行われる戦争はジハードであり、神のための聖戦である。
最近よく用いられるジハードは主としてこの意味のもので、攻撃されているイスラムの同胞を武器の力で守ろうという呼びかけである。この場合の聖戦は、攻撃的というよりも防衛的である。
『十字軍の思想』21頁
1つの概念を扱うのも、様々な注意が必要だと分かる一文です。ジハードと聖戦、似ているけど違う、ジハード自体も、本来の意味と、今一般的に用いている意味が違う・・・しかし、だからといって、本来ばかり強調しても、現実的には意味は無いし、現実に流れても問題だといえます。それにしても、「ジハード」というのは、我々仏教でいうところの、「精進」に近い意味だと理解出来ます。ただ、無論、その努力があくまでも仏法という実現目標を目指して行われる精進と、神がいて、その命令にしたがうことを前提に行うジハードとは、一緒くたにすることは出来ません。
それにしても、ここで山内氏が指摘されることから或る理解を進める必要があると思うのは、特定の概念から特定の意味だけを取り出して、全体を決めようとすることでしょうか。この場合は、イスラムの平和的性格の強調は、実際にはどうなのか?という問題であります。何故ならば、イスラムのジハードは、背教者に対する武力行使が認められている(山内氏前掲同著22頁)とのことであれば、ここには防衛的とはいえ、暴力を明確に肯定しているわけです。そして、それが過剰にならないという必然性が前提できない以上は、平和的であるとは独断できません。
ただ、「聖戦」という場合に、宗教的な正統性を謳って攻撃することも認められるとなれば、ジハードの限定性は明らかです。よって、その意味での平和性はあると思います。ただ、我々は往々にして、贔屓の引き倒しの如く、極端に物事を捉えようとします。ジハードの平和的意味強調はその例です。或いは、逆に、ジハードと聞けば、暴力的だとのみ決め付けて、その真相を知ろうという努力をしないのも問題です。
山内氏は、「十字軍」の内容を見ると、攻撃的なのは、イスラムよりキリスト教であったといっています(前掲同著23頁)。今でもたまに、アメリカの為政者が自らの軍隊を、「十字軍」というような物言いをする場合がありますが、これは思った以上に野蛮な表現かもしれないのです。そういうことにも気を付けたいものです。
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買った動機も今となっては思い出せないのですが、多分、その頃にはイスラームの歴史に興味があったということ、しかも、この場合には、明らかな「加害者側」であるキリスト教の論理というか、聖戦理由みたいなのを知ることで、逆にイスラーム側からの視点を獲得しようと思っていたのかも?自分でも、何言っているか良く分かりませんが・・・しかも、アルカイダのビンラディン氏もアメリカに殺害されたという報道もありますが、そういえばその時に、アメリカのオバマ大統領は、「正義の戦い」とかいっていましたっけ。
或る種の「聖戦」的なものか?と思っていたら、山内氏に依れば、「聖戦」と「正戦」とがあるとのこと。いわゆる「正義の戦い」的な文脈は「正戦」らしい・・・でも、それは『広辞苑』(岩波書店)にも載っていないし、或る種の学術用語なのでしょうかね。分かり易くいうと、「聖戦」は宗教的戦争論で、「正戦」は世俗的戦争論とのこと。
さておき、出て来たからには、読んでしまわねばなりません。新書なら1日も掛かりません(哲学書・思想書を除く)。読んでいると、色々と気になる話もございます。
ジハードは聖戦よりも広い概念である。それは、神に従えという神の命令への反応ではあるが、この場合の「反応」は武器への特殊な呼びかけを含まず、信仰への熱意に対する命令でしかない。ジハードとは本来、「ある目的のために払う努力」という意味である。
では、ジハードに聖戦の思想がないかといえば、これもそうではない。もし、ジハードの平和的側面だけを取り出して、イスラムの平和的性格だけを強調するなら、それはやはり一面的だろう。少なくとも、内外の敵に対して信仰を守るために行われる戦争はジハードであり、神のための聖戦である。
最近よく用いられるジハードは主としてこの意味のもので、攻撃されているイスラムの同胞を武器の力で守ろうという呼びかけである。この場合の聖戦は、攻撃的というよりも防衛的である。
『十字軍の思想』21頁
1つの概念を扱うのも、様々な注意が必要だと分かる一文です。ジハードと聖戦、似ているけど違う、ジハード自体も、本来の意味と、今一般的に用いている意味が違う・・・しかし、だからといって、本来ばかり強調しても、現実的には意味は無いし、現実に流れても問題だといえます。それにしても、「ジハード」というのは、我々仏教でいうところの、「精進」に近い意味だと理解出来ます。ただ、無論、その努力があくまでも仏法という実現目標を目指して行われる精進と、神がいて、その命令にしたがうことを前提に行うジハードとは、一緒くたにすることは出来ません。
それにしても、ここで山内氏が指摘されることから或る理解を進める必要があると思うのは、特定の概念から特定の意味だけを取り出して、全体を決めようとすることでしょうか。この場合は、イスラムの平和的性格の強調は、実際にはどうなのか?という問題であります。何故ならば、イスラムのジハードは、背教者に対する武力行使が認められている(山内氏前掲同著22頁)とのことであれば、ここには防衛的とはいえ、暴力を明確に肯定しているわけです。そして、それが過剰にならないという必然性が前提できない以上は、平和的であるとは独断できません。
ただ、「聖戦」という場合に、宗教的な正統性を謳って攻撃することも認められるとなれば、ジハードの限定性は明らかです。よって、その意味での平和性はあると思います。ただ、我々は往々にして、贔屓の引き倒しの如く、極端に物事を捉えようとします。ジハードの平和的意味強調はその例です。或いは、逆に、ジハードと聞けば、暴力的だとのみ決め付けて、その真相を知ろうという努力をしないのも問題です。
山内氏は、「十字軍」の内容を見ると、攻撃的なのは、イスラムよりキリスト教であったといっています(前掲同著23頁)。今でもたまに、アメリカの為政者が自らの軍隊を、「十字軍」というような物言いをする場合がありますが、これは思った以上に野蛮な表現かもしれないのです。そういうことにも気を付けたいものです。
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