道元禅師の伝記を中心に、だいたい永平寺の六世・曇希禅師の時代くらいまでを書いた『建撕記』という文献がある。この「建撕」というのは、永平寺十四世の建撕禅師という人だが、寺内に残る資料を使って伝記を示されたものである。
ところで、いくらか気に入らないこともある。それは、やはり年号の理解などが極めて曖昧だということであろうか。例えば、現在金沢にある曹洞宗の専門僧堂である大乗寺は、永平寺三世・徹通義介禅師の開山だけれども、その経緯を『建撕記』では以下のように書く。
徳治二年、加賀国大乗寺ゑ御下向と云々。委細行状在之。
徳治2年というのは、1307年のことになるが、さすがにこれは遅すぎる。だいたい、瑩山禅師が同寺住職の立場(享年62歳説)で『伝光録』を説いたのが1300年1月からとされていて、しかも同書の中には「之に依て当寺老和尚介公、まのあたり彼の嫡子として法幢を此処に建て宗風を当林に揚ぐ」(第52章)とあり、義介禅師が既に東堂の立場であることを指摘している。
よって、これは『建撕記』が何かを読み間違ったために起きた誤謬だが、その原因は以下の一文かと思われる。
永平寺御退院の後も寺の麓に庵居、而養母堂を立て、二十年の間不離本寺御座也。
同じく『建撕記』だが、同書では、義介禅師が永平寺を退董した後で、養母堂を建てて20年間永平寺を離れなかったと指摘している。しかも、ここで前提しているのは、義介禅師が2度目の永平寺住職(再住)を退董した時期を弘安10年(1287)に設定し、そこから20年を足して1307年になっているという話である。
ただ、義介禅師が養母堂を建てて隠遁したのは、永平寺住職(初住)を退董した時期である文永9年(1272)のことであると思われ、そこから20年後ということで、1291〜2年頃大乗寺に入ったと見るのが自然であるように思う。ただ、大乗寺の伝では、弘安6年(1283)開山との説もあり、この辺曖昧だけれども、少なくとも1307年開山という説を主張する『建撕記』を採ることは出来ない。
結局のところ、1400年代に入って書かれた『建撕記』は、初期永平寺僧団を知る資料として、やや時代が下りすぎているといえるのである。ただ、これでしか知られないこともあるから、全面的に否定することも出来ない。要するに、この資料もまた、是々非々で判ずる必要があるということだ。
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徳治二年、加賀国大乗寺ゑ御下向と云々。委細行状在之。
徳治2年というのは、1307年のことになるが、さすがにこれは遅すぎる。だいたい、瑩山禅師が同寺住職の立場(享年62歳説)で『伝光録』を説いたのが1300年1月からとされていて、しかも同書の中には「之に依て当寺老和尚介公、まのあたり彼の嫡子として法幢を此処に建て宗風を当林に揚ぐ」(第52章)とあり、義介禅師が既に東堂の立場であることを指摘している。
よって、これは『建撕記』が何かを読み間違ったために起きた誤謬だが、その原因は以下の一文かと思われる。
永平寺御退院の後も寺の麓に庵居、而養母堂を立て、二十年の間不離本寺御座也。
同じく『建撕記』だが、同書では、義介禅師が永平寺を退董した後で、養母堂を建てて20年間永平寺を離れなかったと指摘している。しかも、ここで前提しているのは、義介禅師が2度目の永平寺住職(再住)を退董した時期を弘安10年(1287)に設定し、そこから20年を足して1307年になっているという話である。
ただ、義介禅師が養母堂を建てて隠遁したのは、永平寺住職(初住)を退董した時期である文永9年(1272)のことであると思われ、そこから20年後ということで、1291〜2年頃大乗寺に入ったと見るのが自然であるように思う。ただ、大乗寺の伝では、弘安6年(1283)開山との説もあり、この辺曖昧だけれども、少なくとも1307年開山という説を主張する『建撕記』を採ることは出来ない。
結局のところ、1400年代に入って書かれた『建撕記』は、初期永平寺僧団を知る資料として、やや時代が下りすぎているといえるのである。ただ、これでしか知られないこともあるから、全面的に否定することも出来ない。要するに、この資料もまた、是々非々で判ずる必要があるということだ。
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