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禅宗清規と戒法の関係性について

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禅宗に於ける「清規」とは、大小乗の戒律から博約折中して条文を作ったともされるが、実際には、禅宗叢林(禅林)の実態に即して、必要な事柄が取捨選択されつつ構築されたというのが正しいといえよう。そこで、ここ2年ほど拙ブログでは、仏教の戒律、禅宗の戒律(禅戒)などについて論じているのだが、ずっと気になっていることの1つに、禅林での戒法が、どう位置付けられ、機能しているか、ということである。

例えば、現存最古の禅宗清規とされる『禅苑清規』(1103年序、全10巻)では、第1巻の冒頭から「受戒」「護戒」という項目が続き、それらを虚心坦懐に見ると、新たな出家者を迎える儀礼が示されていることが分かる(具体的な戒法の授け方や、遮難などが書いてあるわけでは無いので、分かりにくいが、三衣や鉢盂の準備を促していることから、そう理解すべきであろう)。更には、第9巻には「沙弥受戒文」の項目があり、こちらは詳細なる作法が完備されている。そこで思うところは、授戒作法そのものは禅宗独自ではなくて、律宗と共通であったことだろう。一方で、「沙弥」については独自であっても良く(いわゆる白四羯磨を経ない作法であるため)、そちらは禅宗で独自のものを定めておいたため、作法が完備されている、という推測が成り立つ。

まずはここを梃子のようにして、後継の清規について検討してみたい。最初は中国で最もよく完備された清規と評価される『勅修百丈清規』である。『禅苑清規』の場合は、戒法に関する文脈が、複数の巻にまたがっていたが、『勅修百丈清規』の場合には下巻の「大衆章第七」に「沙弥得度」「新戒参堂」「登壇受戒」「護戒」と並んで掲載され(字句の整理が行われたくらいで、内容はほぼ『禅苑清規』と同じ)、「受戒」は「登壇受戒」と項目名が改まったものの、授戒法の詳細は示されていない。

なお、仏教に於ける「戒律」とは、ただ受けるのみ、或いはただ護るのみでは無くて、内容を正しく教育され、一人の僧侶(比丘・比丘尼)として成長していくことが求められる。その点、『禅苑清規』も『勅修百丈清規』も、「護戒」の項目で理念が示されつつ、具体的には「亀鏡文」や「一百二十問」(『禅苑清規』のみ)などを通して禅林に於ける振る舞い方などが教育されていたものと思われる。

ここから中国の清規は、僧侶の出家に伴う新たな比丘の受け入れ、教育までも網羅した「清規」であったということになろう。

それでは、日本というか、曹洞宗はどうだったのだろうか?

宗門の場合、道元禅師に『永平清規』全6編が残されるが、これらは叢林行持全体から見れば部分的な内容であって、今回論じる内容には適さず、網羅的な清規については瑩山紹瑾禅師の『瑩山清規』(上下2巻、1324年成立)を待たねばならない。ただ、両祖の清規と戒法の関係性を見ていくと、以下のようになる。

道元禅師の場合、『永平清規』からは、「日分行持」のほぼ全てが理解可能で、『永平広録』・『正法眼蔵』「安居」巻などを通して、「年分行持」も大体理解出来る。ただし、「月分行持」については瑩山禅師の『瑩山清規』も併せて見ていかないと分からないし、更に瑩山禅師の場合は『洞谷記』も見ないと分からない。

整理すると、道元禅師の場合、『永平清規』は禅林の諸進退や各役職(役寮)の理念などが主であり、戒法に関する事柄は直接は出てこない。ただし、別記として『出家略作法』や『正法眼蔵』「受戒」巻などから、出家の作法については「菩薩戒」を中心(『出家略作法』は一部声聞戒も含む)とした略作法ながら提示されている。その上で、僧侶教育という観点では、『対大己五夏闍黎法』が該当するといえよう。

同じように、瑩山禅師の場合、『瑩山清規』は「年分・月分・日分」と叢林行持が体系化されている反面(なお、中国でも『勅修百丈清規』の場合には、日分行持[日用軌範]と年分行持[項目名は「月分須知」だが内容は年分]は明らかに存在し、月分行持は分かりにくいものの「住持日用」の項目を丹念に見ていくと、大体ここが「月分」を示していると理解出来る)、新たな出家者に対する項目(受戒など)が無い。ただし、瑩山禅師も『出家授戒略作法』という『出家略作法』とほぼ同じような作法書を用いていたとも伝わるし、或いは『仏祖正伝菩薩戒作法』を用いていた可能性もある(『洞谷記』の記録では永平寺4世・義演禅師から作法書を伝授すると、阿波城万寺で授戒しているが、その最初は出家者であった)。また、『洞谷記』の流布本系統を見てみると、「発心作僧事」に出家者を受け入れる叢林側の対応法が示されており、更には、『瑩山清規』「日中行事」には「十二時中の行履、弁道法・赴粥飯・洗面法・洗浄法の如し。并びに寮中清規・参大已事師等に委曲なり。悉くこれを諳んずべし」とあって、道元禅師の教えを受けつつ、『寮中清規(おそらくは『衆寮箴規』のことであろう)』や、『参大己事師(おそらくは『対大己五夏闍黎法』であろう)』などが僧侶育成の軌範とされたと思われる。

以上のことから、曹洞宗黎明期には、僧侶の出家に関わる作法は別記であるが、僧侶教育の部分は「清規」の文脈の中に入っていたといえよう。

そして、その後の時代はどうだったのかというと、江戸時代についても基本は同じで、僧侶の出家作法が軌範に取り入れられることは一般的には無く、面山瑞方禅師『得度略作法』や、逆水洞流禅師『剃度直授菩薩戒儀軌』などが別記として刊行されたり、写本で伝わったりした。ただし、黄泉無著禅師『永平小清規翼』には「沙弥得度」の項目が設けられ、沙弥戒を含めた菩薩大戒授与も行われ、更には三衣なども授けられているから、これは比丘としての出家であったと見て良い。そうなると、江戸時代の末期まで来ると、清規の中に戒法が取り入れられる事態が垣間見えたということになる。しかし、『洞上行持軌範』では戒法の部分が一時的に遠のいてしまうことになったが、その後再度、『昭和改訂曹洞宗行持軌範』になると、各種得度式が制定されて、更に現行の『昭和修訂曹洞宗行持軌範』になると、出家得度式のみ(軌範には「寺族得度式」も載っているが、現在は同式を停止し、「寺族安名親授式」となっている)となった。

そうなると、宗門の軌範は、中国の清規のように戒法の要素を取り入れて現在の形になったということになるだろう。無論、更に詳細に見ていけば、様々な例外事項なども見えてくると思うが、大概は上記の通りである。

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