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今日は釈尊降誕会(平成31年度版)

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今日4月8日は、仏教を開いた釈尊の降誕会であるとされる。日本では、近代に入ってから「花祭り」などと呼ばれるようになったが、元々は「降誕会」「浴仏会」「灌仏会」などと呼称される法会であった。そこで、今日はその法会に因む説法を見ておきたい。

 仏誕生に拈香す。
 雨、雨を洗い、風、風を磨す。水緑花紅なり。
 釈迦老子、天を指し地を指して自ら言う、「天上天下唯我独尊」と。
 噫、然る従り、南瞻浮洲、荊棘生じ、諸人悩乱す。
 總持、雲門に令して行わせしめず。
 只だ一杓の悪水を驀頭に灑ぎ、諸人と報恩し去らんと要す。
 良久して曰く、
 稽首大聖、驢胎馬腹、馬腹驢胎。
    『通幻禅師語録』、『曹洞宗全書』「語録一」巻・71頁下段~72頁上段

これは、通幻寂霊禅師(1322~1391)が總持寺に住持している間の上堂であろうか。この語録は、上堂の順番が、やや分かりにくいところがあるし、これももしかすると、後の宗門の語録では「小仏事」などに入るものなのかもしれない。ただし、「總持」とあることから、通幻禅師が總持寺の住持であったいずれかの時(少なくとも3回以上の期間にわたって住持されており、詳細が分からない)に詠まれたものだとは言えよう。

内容だが、まず最初は雨が雨を洗ったり、風が風を磨したりするというのは、それがそれとしてあると言うことで、我々自身の本来のあり方に、仏法の功徳が何も欠けていないことをいう。その上で、通幻禅師は釈尊の「天上天下唯我独尊」を唱えたという伝承を取り上げつつ、この結果、我々人間世界には荊棘(いばら)が生じ、人々は大いに迷うことになったという。詳細は後述するが、これは「唯我独尊」というような考え方を批判したものである。

そして、中国雲門宗の雲門文偃であれば、釈尊が生まれたらすぐに殺して犬の餌にしてしまうのに、といっていたものの、通幻禅師はそうはさせないとし、生まれたばかりの釈尊に柄杓で汚れた水を頭から注いでさし上げて、皆と報恩しようという。そして、しばし無言の間を置かれてから、釈尊を讃えるかのように、その辺の動物から生まれてきたものだ、と喝破した。

これはつまり、禅門でいうところの「廓然無聖」の道理に従って、釈尊が生まれた一事を解釈した問答であるといえる。仏教に限らず多くの宗教であれば、教祖や開祖などと呼ばれる祖師に対しては、尊崇するのが当たり前である。だが、禅宗はそういった単純なカリスマ性やカリスマ性への無闇な鑽仰を批判する。その結果、「天上天下唯我独尊」と自ら言ったという釈尊に対しても、殺すまではしないものの、泥水をかけたり、特殊性を批判するような生まれであるとし、カリスマ性を批判したのである。

今日は釈尊降誕会であり、いわゆる三仏忌(三仏会)の1つであるというから、各地の仏教寺院では、灌仏・浴仏の準備をしている場合も多いと思う。だが、真実に仏道を学びたいのであれば、その甘茶なりをかける瞬間に、我々は一体何をしているのかを正しく知るべきであるといえる。

南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏、合掌

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これまでの読み切りモノ〈曹洞宗11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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