この苦言は、かなり染み入る言葉でもある。或る意味、我々が物事を学ぶ際の戒めでもあるといえる。よって、最近は戒学ばかりの記事を書いている拙ブログでも、自戒の念を込めて取り上げておきたい。
因みに記すに、妙玄先師云く、凡そ禅を会せざる者は、好多禅を議す。教を明かさざる者は、好多教を論ず。其の要領を問うに、竟に所帰無し。窮郷の異、曲学の弁、亦た太だ疢ならずや。
夫れ仏の教えを設けるは、広く群機を被り、化網重重たるも、唯だ一乗に統む。
是を以てか、
諸宗の提唱、各各其の妙を蘊み、或いは四教の方を画して、或いは五教の円を張り、或いは権を開き実を顕し、或いは大を秘し小を現ず。宗宗異なると雖も、同じく仏意に逆らう。一化を該羅して通達無礙なり。況んや亦た吾が禅、教判に拘らず、唯だ仏印を提するのみ。大に非ず小に非ず、能く密にして能く簡たり。
是の故に、
学するに必ず相承を尊ぶ。苟も相承を知らずんば、乖角する所多し。
縦い学博才高なるも眼前の暗きを免れず。
或いは少かに教えを解し、粗ぼ開遮を聞く者有るも、井蛙の己見を以て、大いに先宗を謗じ、家訓を凌蔑す。蓋し宗妙の闇に坐し、不測の咎に陥る。吁、懼るるべきかな。
是を以てか、
唯だ其の伝を守りて他面を見ざるして、純一に秉持するのみ。是れ其の宗を得ると為すか。
卍海宗珊禅師『禅戒訣註解』「禅戒訣註解の後に書す」、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・386頁下段、訓読は拙僧
本書は、卍山道白禅師の『禅戒訣』に対して、その法孫である卍海宗珊禅師が註解した文献である。その末尾の文章に於いて、卍海禅師が本師である三洲白龍禅師から聞いたことを書き記しているのである。妙玄先師とは、金沢市内に所在する妙玄院を開いた先師(既に亡くなられた本師のこと)のことで、三洲禅師のことを指す。
さて、ここで伝えている教えとは、やはり冒頭の句に集約される。つまり、「凡そ禅を会せざる者は、好多禅を議す。教を明かさざる者は、好多教を論ず。其の要領を問うに、竟に所帰無し」ということである。意訳すれば、禅を会得していない者こそ、たくさん禅を議論し、仏教を明らかにしていない者こそ、たくさん教えを議論するということである。しかも、その要点を聞いてみても、その根本が分かっていない、という苦言なのである。
色々な人から質問を受けた感想を率直に述べると、まさにこの状態であった。或いは、様々な掲示板やブログの記事を見ても、華々しい議論をしているように見えるものこそ、実はその要領・根本が分かっていないために行われている戯論であることが多い。結局は、何のために仏教を学ぶのかが分かっていないためであると言えよう。更にいえば、学んだ過程も結果も悪くなり、場合によっては先人を悪くいったりすることもあるという。これでは、謗三宝の罪になるともいえよう。
ところで、拙僧が更に気になったのは、「況んや亦た吾が禅、教判に拘らず、唯だ仏印を提するのみ」という一節で、この辺は道元禅師の『弁道話』などから導き出された考えであろうか。更には、「井蛙の己見」という表現にも、なるほどと思った。いわゆる「井の中の蛙」ということになるのだろうが、対して物が見えていないのに、自らの見解に依存してしまう悪弊を批判したものだといえる。
やはり、先人から受け継いだ正法眼蔵を大事に、丁寧に自ら学ぶことの大切さを確認させられたといえよう。
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因みに記すに、妙玄先師云く、凡そ禅を会せざる者は、好多禅を議す。教を明かさざる者は、好多教を論ず。其の要領を問うに、竟に所帰無し。窮郷の異、曲学の弁、亦た太だ疢ならずや。
夫れ仏の教えを設けるは、広く群機を被り、化網重重たるも、唯だ一乗に統む。
是を以てか、
諸宗の提唱、各各其の妙を蘊み、或いは四教の方を画して、或いは五教の円を張り、或いは権を開き実を顕し、或いは大を秘し小を現ず。宗宗異なると雖も、同じく仏意に逆らう。一化を該羅して通達無礙なり。況んや亦た吾が禅、教判に拘らず、唯だ仏印を提するのみ。大に非ず小に非ず、能く密にして能く簡たり。
是の故に、
学するに必ず相承を尊ぶ。苟も相承を知らずんば、乖角する所多し。
縦い学博才高なるも眼前の暗きを免れず。
或いは少かに教えを解し、粗ぼ開遮を聞く者有るも、井蛙の己見を以て、大いに先宗を謗じ、家訓を凌蔑す。蓋し宗妙の闇に坐し、不測の咎に陥る。吁、懼るるべきかな。
是を以てか、
唯だ其の伝を守りて他面を見ざるして、純一に秉持するのみ。是れ其の宗を得ると為すか。
卍海宗珊禅師『禅戒訣註解』「禅戒訣註解の後に書す」、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・386頁下段、訓読は拙僧
本書は、卍山道白禅師の『禅戒訣』に対して、その法孫である卍海宗珊禅師が註解した文献である。その末尾の文章に於いて、卍海禅師が本師である三洲白龍禅師から聞いたことを書き記しているのである。妙玄先師とは、金沢市内に所在する妙玄院を開いた先師(既に亡くなられた本師のこと)のことで、三洲禅師のことを指す。
さて、ここで伝えている教えとは、やはり冒頭の句に集約される。つまり、「凡そ禅を会せざる者は、好多禅を議す。教を明かさざる者は、好多教を論ず。其の要領を問うに、竟に所帰無し」ということである。意訳すれば、禅を会得していない者こそ、たくさん禅を議論し、仏教を明らかにしていない者こそ、たくさん教えを議論するということである。しかも、その要点を聞いてみても、その根本が分かっていない、という苦言なのである。
色々な人から質問を受けた感想を率直に述べると、まさにこの状態であった。或いは、様々な掲示板やブログの記事を見ても、華々しい議論をしているように見えるものこそ、実はその要領・根本が分かっていないために行われている戯論であることが多い。結局は、何のために仏教を学ぶのかが分かっていないためであると言えよう。更にいえば、学んだ過程も結果も悪くなり、場合によっては先人を悪くいったりすることもあるという。これでは、謗三宝の罪になるともいえよう。
ところで、拙僧が更に気になったのは、「況んや亦た吾が禅、教判に拘らず、唯だ仏印を提するのみ」という一節で、この辺は道元禅師の『弁道話』などから導き出された考えであろうか。更には、「井蛙の己見」という表現にも、なるほどと思った。いわゆる「井の中の蛙」ということになるのだろうが、対して物が見えていないのに、自らの見解に依存してしまう悪弊を批判したものだといえる。
やはり、先人から受け継いだ正法眼蔵を大事に、丁寧に自ら学ぶことの大切さを確認させられたといえよう。
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