とあるルートで依頼されて、横浜市内で毎月1回ずつ、市内にあるカルチャーセンターで「坐禅と法話」講座を始めました。まだ、2回を行ったばかりですが、徐々にこちらも方針を決めつつあります。「法話」というと、いわゆる「ありがたい仏教話」をするというスタンスになると思うのですが、拙僧自身、そういう意味での話が決して得意ではないので、得意分野に持ち込みながら、1つ1つ仏教に関するお話しをしていこうと考えております。
後は、受講者の皆さんとの遣り取りで、徐々に方向性を決めていこうと思っております。
それにしても、前回の講座の時、気になったのが、受講者からの質問・意見で多かったのが、現在の日本仏教寺院に於ける、「戒名料」及び、「僧侶の生活」についてでした。もちろん、好意として指摘されたのではありません。問題があるのではないか?と問われたのであります。
そういう質問をしたい気持ちも分かりますが、ここには僧侶への不信があるといえます。不信というのは、いたずらなる善悪よりも厳しい話です。よって、まぁ、このブログの読者の皆さんであれば、大体想像が付くでしょうが、「戒名料」については、現在の日本仏教寺院は宗教として、決して搾取していない旨を指摘し、他のキリスト教(カトリック)や、一般的な新興宗教に於ける支出の問題などを挙げて、更に拙僧が直接見聞した海外の仏教の様子を紹介しながら、むしろ、今の日本人の在家信者が支払う布施は少な過ぎると反論したのであります。一部には、具体的な数字も使っています。
また、一部の寺院の収入が多いことは認めますが、しかし、平均すれば全くもって木を見て森を見ずという誤解に過ぎません。
なお、いうまでもないことですが、本来はそういう話をしたいわけではないのです。次回以降は、もう少しまともな話をしていきたいと思います。
まともな話、というのは、各国の制度や歴史、そういう状況に左右されないただの「仏法」ということです。仏法には、国も無いし歴史も無く、常に我等の心の統御に役立つのであります。それは、おそらく、宗派の教義を超えて適用されるはずです。つまり、どの宗派でもその要素が教義に含まれるということです。
身躰血肉だにもよくもてば、心も随ツて好くなると、医法等に見る事多し。況ンや学道の人、持戒梵行にして仏祖の行履にまかせて、身儀ををさむれば、心地も随ツて整なり。
『正法眼蔵随聞記』巻1-3
このように、道元禅師(1200〜1253)が「医学」の知識を用いながら、身体や血肉も良く保てば、心も従って良くなるとしています。同じように、仏道を学ぶ人も、戒を守り、清浄なる修行をしつつ、仏祖の行履に任せて、身の行儀を修めれば、心地も整うのであります。身体の動きが良くなれば、心も良くなる、これは、調身と調心とが密接に関わっていることを示すものです。現在の脳科学でも、その密接は事実であり、その精度をこそ問われる事態となりますが、当時から経験則的に良く分かっていたのです。
自分達の身心を使って、長年の歴史の中で繰り返し検証し続けてきたのです。それは、間違うことがありません。何故ならば、火を見ることよりも明らかなことだからです。よって、拙僧は、坐禅の時間の後で、皆さんにお話しをします。しかしそれは、何等新奇な話をするのではありません。皆さんが良く分かっていることを、ただ顕彰するだけなのです。楽なことをさせていただくだけですが、しかし、人は忙しい日常の中で、その基本をこそ忘れてしまうものです。或いは当たり前のことを知ろうとしないものです。
よって、それを指摘させていただくのが、この講座の狙いになります。
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そういう質問をしたい気持ちも分かりますが、ここには僧侶への不信があるといえます。不信というのは、いたずらなる善悪よりも厳しい話です。よって、まぁ、このブログの読者の皆さんであれば、大体想像が付くでしょうが、「戒名料」については、現在の日本仏教寺院は宗教として、決して搾取していない旨を指摘し、他のキリスト教(カトリック)や、一般的な新興宗教に於ける支出の問題などを挙げて、更に拙僧が直接見聞した海外の仏教の様子を紹介しながら、むしろ、今の日本人の在家信者が支払う布施は少な過ぎると反論したのであります。一部には、具体的な数字も使っています。
また、一部の寺院の収入が多いことは認めますが、しかし、平均すれば全くもって木を見て森を見ずという誤解に過ぎません。
なお、いうまでもないことですが、本来はそういう話をしたいわけではないのです。次回以降は、もう少しまともな話をしていきたいと思います。
まともな話、というのは、各国の制度や歴史、そういう状況に左右されないただの「仏法」ということです。仏法には、国も無いし歴史も無く、常に我等の心の統御に役立つのであります。それは、おそらく、宗派の教義を超えて適用されるはずです。つまり、どの宗派でもその要素が教義に含まれるということです。
身躰血肉だにもよくもてば、心も随ツて好くなると、医法等に見る事多し。況ンや学道の人、持戒梵行にして仏祖の行履にまかせて、身儀ををさむれば、心地も随ツて整なり。
『正法眼蔵随聞記』巻1-3
このように、道元禅師(1200〜1253)が「医学」の知識を用いながら、身体や血肉も良く保てば、心も従って良くなるとしています。同じように、仏道を学ぶ人も、戒を守り、清浄なる修行をしつつ、仏祖の行履に任せて、身の行儀を修めれば、心地も整うのであります。身体の動きが良くなれば、心も良くなる、これは、調身と調心とが密接に関わっていることを示すものです。現在の脳科学でも、その密接は事実であり、その精度をこそ問われる事態となりますが、当時から経験則的に良く分かっていたのです。
自分達の身心を使って、長年の歴史の中で繰り返し検証し続けてきたのです。それは、間違うことがありません。何故ならば、火を見ることよりも明らかなことだからです。よって、拙僧は、坐禅の時間の後で、皆さんにお話しをします。しかしそれは、何等新奇な話をするのではありません。皆さんが良く分かっていることを、ただ顕彰するだけなのです。楽なことをさせていただくだけですが、しかし、人は忙しい日常の中で、その基本をこそ忘れてしまうものです。或いは当たり前のことを知ろうとしないものです。
よって、それを指摘させていただくのが、この講座の狙いになります。
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