有り難いことに、ここ数年、ほぼ毎年と言って良いほどに、出家得度式に随喜させていただく機会を得ています。前回は【出家得度式の雑感】を参照していただければ良いと思うのですが、とても嬉しいことです。そして、先月5月にも、侍者兼殿行兼司会進行役として随喜しました。
拙僧は、得度式に随喜させていただく場合には、まぁ、心ばかりの祝賀(お祝い)は当然として、それ以外に必ず、新たに発心された方に『正法眼蔵随聞記』を差し上げるようにしています。故・水野弥穂子先生訳註の、ちくま学芸文庫本です(最近、徐々に手に入りにくくなっている印象)。本文に手が入り過ぎているので、拙僧自身の研究ではもう、使わないようにしていますが、初心者の方にはとても良い本です。
出家得度とは、いわば、仏門に入ることを意味しますけれども、在家信者としてのそれと決定的に違うのは、出家をした者には必ず修行が待っていることです。よって、拙僧はその時の心持ちとして、重要な教示が多数含まれている『随聞記』を必ず差し上げるようにしているのです。道元禅師の教えで、いつも素晴らしいと思うのは、様々な日常生活の軌則を述べるに辺り、その時の身体の動かし方と並べて、「心持ち」も必ず示されることです。心持ちだけあれば、身体の動きはどうでも良い、というのも間違い、身体の動かし方さえ正しければ、心持ちは要らない、というのも間違い。文字通りの身心一如として、修行していくのが、曹洞宗の教えであります。
よって、『随聞記』はとても良いんですね。一例を見てみましょうか?
道元禅師が示されるには、「修行者はまず、心を調伏したならば、身をも世をも捨てることは容易である。ただ言語に付いても行儀に付いても、人目を思うことがある。この事は悪事だから、人が(私を)悪く思うだろうとして行わず、私がこのことを行うことこそ、仏法者であると人は見てくれるだろうとして、ことに触れて良い事を行うというのは、世間のモノの見方である。しかし、また、恣に、我が意に任せて悪事をするのはただの悪人である。つまり、悪心を忘れて、我が身を忘れて、ただひたすらに仏法のために修行すべきなのである。様々な出来事に随いながら、心を用いるべきである。
始めたばかりの修行者は、まず世間的な感情であっても、人情であったとしても、悪事を心で制し、善事を身に行ずるのが、つまりは、身心を捨てるということなのである」。
巻3、拙僧ヘタレ訳
分かり易くするために、ちょっと意訳っぽくなった箇所もありますが、だいたいはこのような意味です。ただ身心を叢林修行に抛つという大まかな話だけではなく、その時にもまた、世俗的な価値観などを保持しないように注意喚起されている指摘なのです。確かに、良いことをしたとしても、その時に、他人に良く思われたいと思うところが残る場合があります。しかし、それでは、結局は「自分の修行」にはならないのです。無論、大乗仏教には「利他」という重要な修行観がありますが、それはあくまでも、自らの真心から生まれた他の救済を促す修行であって、「ええ格好しい」のために行うものではありません。
さて、そんな仏道修行初心者に対し、叢林にいる先輩(古参)はどのように指導しているのでしょうか。現在の曹洞宗の法戦式という重要な儀式の1つでは、その一座の首座となった僧が、一座の指導者である師(法幢師)に、「新戒乍入叢林、諸事生疎なり」と謙ります。直訳すれば、「新たに戒を得たばかりの私は、初めて叢林に入るので、諸事に誤りを生じます」ということです。
それを知っていると、次の教えも重要性を理解出来ます。
趙州、因みに僧問う、「学人、乍めて叢林に入る、乞うらくは師よ、指示せよ」。
師曰く、「汝、喫粥し了れりや未だしや」。
僧曰く、「喫粥し了れり」。
師云く、「鉢盂を洗い去れ」。
其の僧、言下に悟有り。
『真字正法眼蔵』巻上67則
中国禅宗の趙州従諗禅師に対し、初めて叢林に入ったばかりの者が、指示を求めています。この指示とは、ただ叢林に入ったから、何をすれば良いのですか?という意義でのみ捉えてしまうと、真意を取り損ねます。そうではなく、当然に指示とは、仏道に契うにはどうすれば良いかという指示を聞いているのです。趙州の答えは簡潔です。日常底の修行以外に、仏道に契う悟りはないわけですから、その日常底の修行を行ったかどうかを聞いたのです。修行僧は、その言葉から得るものがありました。
さて、このように、初心者への指導(初学法)は、指導者(師家)にとって、非常に大切なことです。しかし、いきなり自分が見聞しただけの「初学法」ですと、十分な指導が出来ない場合もあるかもしれず、また、軌範化が難しいと思われます。だからこそ、古来から、「清規」には、「初学法」を具えている場合があるのです。
・『禅苑清規』その他、中国禅宗で作られた「訓童行」
・天童如浄述・永平道元録『宝慶記』第5問答
・面山瑞方撰『洞上僧堂清規行法鈔』第5巻「僧堂新到須知」
・玄透即中撰『永平寺小清規』「付録・新学須知」
これら一々を見ていくと、とても面白いのですが、ここでは割愛しておきます。しかし、如何にして、修行僧を叢林内に適応させていくかは、時代を問わずに常に課題になっていたはずです。だからこそ、初心者だからとバカにせずに、ちゃんと指導して、立派な1人の僧侶にまで育て上げたのです。得度は、そこでお終いなのではなく、その後、どのように修行していくかが問われます。その時、先に挙げた文献は非常に役に立つといえましょう。
ということで、今年も出家得度の勝縁に出会えた喜びを記事にしてみました。
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拙僧は、得度式に随喜させていただく場合には、まぁ、心ばかりの祝賀(お祝い)は当然として、それ以外に必ず、新たに発心された方に『正法眼蔵随聞記』を差し上げるようにしています。故・水野弥穂子先生訳註の、ちくま学芸文庫本です(最近、徐々に手に入りにくくなっている印象)。本文に手が入り過ぎているので、拙僧自身の研究ではもう、使わないようにしていますが、初心者の方にはとても良い本です。
出家得度とは、いわば、仏門に入ることを意味しますけれども、在家信者としてのそれと決定的に違うのは、出家をした者には必ず修行が待っていることです。よって、拙僧はその時の心持ちとして、重要な教示が多数含まれている『随聞記』を必ず差し上げるようにしているのです。道元禅師の教えで、いつも素晴らしいと思うのは、様々な日常生活の軌則を述べるに辺り、その時の身体の動かし方と並べて、「心持ち」も必ず示されることです。心持ちだけあれば、身体の動きはどうでも良い、というのも間違い、身体の動かし方さえ正しければ、心持ちは要らない、というのも間違い。文字通りの身心一如として、修行していくのが、曹洞宗の教えであります。
よって、『随聞記』はとても良いんですね。一例を見てみましょうか?
道元禅師が示されるには、「修行者はまず、心を調伏したならば、身をも世をも捨てることは容易である。ただ言語に付いても行儀に付いても、人目を思うことがある。この事は悪事だから、人が(私を)悪く思うだろうとして行わず、私がこのことを行うことこそ、仏法者であると人は見てくれるだろうとして、ことに触れて良い事を行うというのは、世間のモノの見方である。しかし、また、恣に、我が意に任せて悪事をするのはただの悪人である。つまり、悪心を忘れて、我が身を忘れて、ただひたすらに仏法のために修行すべきなのである。様々な出来事に随いながら、心を用いるべきである。
始めたばかりの修行者は、まず世間的な感情であっても、人情であったとしても、悪事を心で制し、善事を身に行ずるのが、つまりは、身心を捨てるということなのである」。
巻3、拙僧ヘタレ訳
分かり易くするために、ちょっと意訳っぽくなった箇所もありますが、だいたいはこのような意味です。ただ身心を叢林修行に抛つという大まかな話だけではなく、その時にもまた、世俗的な価値観などを保持しないように注意喚起されている指摘なのです。確かに、良いことをしたとしても、その時に、他人に良く思われたいと思うところが残る場合があります。しかし、それでは、結局は「自分の修行」にはならないのです。無論、大乗仏教には「利他」という重要な修行観がありますが、それはあくまでも、自らの真心から生まれた他の救済を促す修行であって、「ええ格好しい」のために行うものではありません。
さて、そんな仏道修行初心者に対し、叢林にいる先輩(古参)はどのように指導しているのでしょうか。現在の曹洞宗の法戦式という重要な儀式の1つでは、その一座の首座となった僧が、一座の指導者である師(法幢師)に、「新戒乍入叢林、諸事生疎なり」と謙ります。直訳すれば、「新たに戒を得たばかりの私は、初めて叢林に入るので、諸事に誤りを生じます」ということです。
それを知っていると、次の教えも重要性を理解出来ます。
趙州、因みに僧問う、「学人、乍めて叢林に入る、乞うらくは師よ、指示せよ」。
師曰く、「汝、喫粥し了れりや未だしや」。
僧曰く、「喫粥し了れり」。
師云く、「鉢盂を洗い去れ」。
其の僧、言下に悟有り。
『真字正法眼蔵』巻上67則
中国禅宗の趙州従諗禅師に対し、初めて叢林に入ったばかりの者が、指示を求めています。この指示とは、ただ叢林に入ったから、何をすれば良いのですか?という意義でのみ捉えてしまうと、真意を取り損ねます。そうではなく、当然に指示とは、仏道に契うにはどうすれば良いかという指示を聞いているのです。趙州の答えは簡潔です。日常底の修行以外に、仏道に契う悟りはないわけですから、その日常底の修行を行ったかどうかを聞いたのです。修行僧は、その言葉から得るものがありました。
さて、このように、初心者への指導(初学法)は、指導者(師家)にとって、非常に大切なことです。しかし、いきなり自分が見聞しただけの「初学法」ですと、十分な指導が出来ない場合もあるかもしれず、また、軌範化が難しいと思われます。だからこそ、古来から、「清規」には、「初学法」を具えている場合があるのです。
・『禅苑清規』その他、中国禅宗で作られた「訓童行」
・天童如浄述・永平道元録『宝慶記』第5問答
・面山瑞方撰『洞上僧堂清規行法鈔』第5巻「僧堂新到須知」
・玄透即中撰『永平寺小清規』「付録・新学須知」
これら一々を見ていくと、とても面白いのですが、ここでは割愛しておきます。しかし、如何にして、修行僧を叢林内に適応させていくかは、時代を問わずに常に課題になっていたはずです。だからこそ、初心者だからとバカにせずに、ちゃんと指導して、立派な1人の僧侶にまで育て上げたのです。得度は、そこでお終いなのではなく、その後、どのように修行していくかが問われます。その時、先に挙げた文献は非常に役に立つといえましょう。
ということで、今年も出家得度の勝縁に出会えた喜びを記事にしてみました。
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