曹洞宗の両祖に関する「海の日」ネタは、ちょっと使い切った感があるので、今年は何を書こうかな?とか思っていた拙僧、その時思い付いたのは、『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品偈」に出てくる以下の一節であります。
観世音なる浄き聖は
苦悩と死と厄とにおいて
能く為に依怙と作らん
一切の功徳を具して
慈眼をもって衆生を視す
福の聚れる海は無量なり
この故に頂礼すべし
中村元『現代語訳大乗仏典2 法華経』東京書籍、257頁、下線は拙僧
まぁ、拙寺に限らず曹洞宗では『観音経』を読む機会はかなり多いので、この一節についても「ふくじゅーかいむーりょー」と読む箇所ということはすぐにお分かりいただけるでしょう。この箇所は同品に於ける観世音菩薩の再度の定義というべき箇所であり、観世音という優れた聖(偉大なる活動的仏道者)とは、苦悩や死や災いに苛まれる我々衆生にとって「依怙」、つまり「頼りになる存在」だというのです。
しかも、菩薩でありながら、三十三現身に見る如く、仏の姿にも成ることが出来るその偉大さから考えて、この菩薩が一切の功徳を具えていることは明らかなのです。しかも、慈悲の眼でもって、困っている衆生を常に見守ってくれています。そして、「無量の福が聚まった海のような存在」といえるのです。
仏教では常に、「海」とは「集まるべき場所」として考えられています。一種の集合体なのです。しかし、この集合体は、他が無い集合体です。海は海であらゆる存在を受け容れながら、しかし、あらゆる存在を受け容れるということは、海とはそれだけで完結する存在なのです。この辺の詳しいところは【道元禅師と「海の日」】でもご覧いただくと良いでしょう。
この経文で必要なのは、あらゆる存在を受け容れるということに尽きるわけで、それを端的に「慈悲」というわけです。同じ「普門品偈」の一節に、観音菩薩の「観」について、次のように延べる箇所があります。
真観 清浄観 広大智慧観
悲観及び慈観あり 常に願い常に瞻仰すべし
真の眼、清らかな眼、広大なる智慧の眼、あわれみの眼、慈しみの眼と五つが具わっているので、我々は常に、この観音に対して願い、そして仰ぎ見るべきなのです。このあわれみと慈しみとが共に具わることを慈悲というわけです。我々は、他の人が可哀想だと思ったら、素直に手を差し伸べなくてはなりません。まぁ、最近の世の中だと、差し伸べた手を払いのけて、悪態までつく人がいますから注意が必要ですが、その救済に関わる最初の一歩を踏み出す努力までしなくて良いということはないでしょう。
それこそ、悪態をつかれることまで含めて、菩薩の修行だと思えば気が楽です。悪態をつくから救わなくて良いということにはならないわけです。それこそ、それは有りもしない海の外を探すようなものです。ここで気付かれた方も多いと思いますが、この場合の「海」とは「法」のことです。普遍的絶対的事実としての、慈悲を具えた法です。いや、法が普遍的絶対的事実であるからこそ、その箇中にある一切の事象へ、その救済を働きかけるしかないのです。一切の事象は、海=法の事実として生まれ滅していきます。
海は 広いな 大きいな
月が のぼるし 日が しずむ
童謡『海』
余りにも有名な、童謡『海』の1番です。これもまた、ただの「海は広いなおおきいな」だけで留まると分かりませんが、この歌詞では、その海にて「月がのぼるし日がしずむ」といわれています。つまり、この海の広大さと、その箇中での現象の生滅とが、正しく捉えられた文脈であるといえます。人は、海に斯様な「無限」を感じます。だからこそ、観音の功徳は、「福聚海無量」と表現されるわけです。今日は海の日、正しく「法」に随い、注意していれば余計な事故にも遭わずに済むでしょう。せっかくの夏、大いに海水浴などを楽しまれると良いと思います。
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観世音なる浄き聖は
苦悩と死と厄とにおいて
能く為に依怙と作らん
一切の功徳を具して
慈眼をもって衆生を視す
福の聚れる海は無量なり
この故に頂礼すべし
中村元『現代語訳大乗仏典2 法華経』東京書籍、257頁、下線は拙僧
まぁ、拙寺に限らず曹洞宗では『観音経』を読む機会はかなり多いので、この一節についても「ふくじゅーかいむーりょー」と読む箇所ということはすぐにお分かりいただけるでしょう。この箇所は同品に於ける観世音菩薩の再度の定義というべき箇所であり、観世音という優れた聖(偉大なる活動的仏道者)とは、苦悩や死や災いに苛まれる我々衆生にとって「依怙」、つまり「頼りになる存在」だというのです。
しかも、菩薩でありながら、三十三現身に見る如く、仏の姿にも成ることが出来るその偉大さから考えて、この菩薩が一切の功徳を具えていることは明らかなのです。しかも、慈悲の眼でもって、困っている衆生を常に見守ってくれています。そして、「無量の福が聚まった海のような存在」といえるのです。
仏教では常に、「海」とは「集まるべき場所」として考えられています。一種の集合体なのです。しかし、この集合体は、他が無い集合体です。海は海であらゆる存在を受け容れながら、しかし、あらゆる存在を受け容れるということは、海とはそれだけで完結する存在なのです。この辺の詳しいところは【道元禅師と「海の日」】でもご覧いただくと良いでしょう。
この経文で必要なのは、あらゆる存在を受け容れるということに尽きるわけで、それを端的に「慈悲」というわけです。同じ「普門品偈」の一節に、観音菩薩の「観」について、次のように延べる箇所があります。
真観 清浄観 広大智慧観
悲観及び慈観あり 常に願い常に瞻仰すべし
真の眼、清らかな眼、広大なる智慧の眼、あわれみの眼、慈しみの眼と五つが具わっているので、我々は常に、この観音に対して願い、そして仰ぎ見るべきなのです。このあわれみと慈しみとが共に具わることを慈悲というわけです。我々は、他の人が可哀想だと思ったら、素直に手を差し伸べなくてはなりません。まぁ、最近の世の中だと、差し伸べた手を払いのけて、悪態までつく人がいますから注意が必要ですが、その救済に関わる最初の一歩を踏み出す努力までしなくて良いということはないでしょう。
それこそ、悪態をつかれることまで含めて、菩薩の修行だと思えば気が楽です。悪態をつくから救わなくて良いということにはならないわけです。それこそ、それは有りもしない海の外を探すようなものです。ここで気付かれた方も多いと思いますが、この場合の「海」とは「法」のことです。普遍的絶対的事実としての、慈悲を具えた法です。いや、法が普遍的絶対的事実であるからこそ、その箇中にある一切の事象へ、その救済を働きかけるしかないのです。一切の事象は、海=法の事実として生まれ滅していきます。
海は 広いな 大きいな
月が のぼるし 日が しずむ
童謡『海』
余りにも有名な、童謡『海』の1番です。これもまた、ただの「海は広いなおおきいな」だけで留まると分かりませんが、この歌詞では、その海にて「月がのぼるし日がしずむ」といわれています。つまり、この海の広大さと、その箇中での現象の生滅とが、正しく捉えられた文脈であるといえます。人は、海に斯様な「無限」を感じます。だからこそ、観音の功徳は、「福聚海無量」と表現されるわけです。今日は海の日、正しく「法」に随い、注意していれば余計な事故にも遭わずに済むでしょう。せっかくの夏、大いに海水浴などを楽しまれると良いと思います。
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