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「おぼろげの福徳にあらず」について

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道元禅師の『正法眼蔵』は、どこまでも美しい。

いまこの古仏の法輪を、尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨・風水、および草木昆虫にいたるまでも、法益をかうぶらずといふことなし。天地・国土も、この法輪に転ぜられて活鱍鱍地なり。未曾聞の道をきく、といふは、いまの道を聞著するをいふ。未曾有をうる、といふは、いまの法を得著するを称するなり。おほよそおぼろげの福徳にあらずば、見聞すべからざる法輪なり。
    「梅華」巻

古仏の法輪というのは、道元禅師の本師である天童如浄禅師(1163〜1227)の偈頌に付いていわれていることだが、問題はその偈頌の内容を超えて、道元禅師がこの法輪が尽界の「最極」に転じている時、一切の天上界・人間界が得道する時節だと述べていることになろう。如浄禅師は、釈尊成道の臘八上堂に於いて、瞿曇が眼睛を打失すると述べている。それは、失ったということであるが、もはや自分でそれを知見する事が出来ないほどに一体化された眼睛の意として採らなくてはならない。よって、一切の人天の得道の時節には、人天のみならず雲雨・風水、草木・昆虫に至るまでも、法益を被らないことはないという。むしろ、天地や国土が活き活きとしているのは、この如浄禅師の法輪に転ぜられ、働かされているためである。

ところで、我々は普通、このような「自覚」はあるだろうか?実際に自覚がある方は幸いである。それは「正信」の人だからである。しかし、そうではなく、自覚は無いにも関わらず、被ってしまっている場合、それは「未曾聞の道」を聞くこととなる。未だ聞いたことが無いので、我々はここから自覚を重ねていくことは出来ない。だが、実際には、「いまの道を聞く」だけなのである。同時に、「未曾有をうる」というのも、いまの法を得るのみである。未だ曾て・・・と言いつつ、実際には「今」のことなのである。

しかし、自覚は難しい。それくらい、如浄禅師の法輪は不可思議である。

それはつまり、「おぼろげの福徳にあらず」だからである。「おぼろげ(並大抵)の福徳(はたらき)」では無いので、我々にしては「見聞すべからざる法輪」になるといえる。我々の認識とは、何かと何かを区別するところに成立する。しかし、それが一切出来ないような、つまりは、一切の区別が滅したところにある「おぼろげの福徳にあら」ざる福徳である如浄禅師の法輪は、我々にはそれとして見聞覚知出来ない。

おほよそ諸仏の境界は、不可思議なり、心識のおよぶべきにあらず、いはむや不信劣智のしることをえむや。
    『弁道話

それは、この文脈にも通じてくる。諸仏の境界は不可思議である。心識が及ぶことは無い。だから、我々にしてみれば、仏法をそれとして悟る体験は不要である。だが、悟る体験は必要である。この悟る体験とは、認識では無い手段で、仏法を直観する体験である。

然而、若し証眼を廻らして行地を顧みれば、一翳の眼に当たる無く、将に見んとすれば白雲万里。若し行足を挙して証階に擬すれば、一塵の足に受くる無く、将に踏まんとすれば、天地懸隔す。
    『学道用心集』「仏道は必ず行に依りて証入すべき事」

証眼をもって、修行してきた道のりを見れば、僅かの影すら見えることは無いし、どうしても見ようと思えば、白雲が万里に伸びるばかりである。逆に、因地の修行をもって、悟りのきざはしを登ろうとしても、階段を登ることは無い。ただ誤りが増すばかりである。よって、修行を行う場合には、因地の修行では無くて、果位の修証である。如浄禅師の法輪も、凡夫がそれとして得ようとしても無駄である。だが、自ら法輪そのものとして転ぜられている事実から見る時、もはや法輪を見る必要が無い。だが、法輪である。既に法輪である。「おぼろげな福徳にあらず」である。

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