いつの時代も、子を思わない親はいないわけですが、こと出家の世界となりますと、本来的に「棄恩入無為(出家の偈)」こそが肝心だとされるため、過度な親心はかえって、「恩愛不能断」を思い知らされることになります。今日はそんな一幕ですが、その親心に対する損翁宗益禅師(仙台泰心院八世)の言葉が凄まじいのです。
仙台府に、富家であった和泉屋久右衛門という者がいた。その子供に許可を出して、可山祖翁(可山洞悦禅師。面山師から見て師匠の師匠に当たる。同寺七世)に属して弟子とさせた。しかし、祖翁は得度をしないまま、受業師の位を譲ってお師匠さまに与えられた。そこで、お師匠さまが得度して、可益と名付けられた。これは、祖翁とお師匠さまの号(可山と宗益)とを兼ねて名付けられたのである。
そこで、久右衛門は、大衆三十人余りを私邸に招いて食事を供養された。素晴らしい御膳を饗応し、終わって茶を飲む時に至り、慇懃に席に進んできて、大衆にこのようなことを述べた。「某甲、今日、大衆の皆さまを招いて供養いたしましたのは、専ら息子の可益のためにございます。各々方、いつの日か可益のことをよろしくお願いしたいと思います。この通り伏して乞うところでございます。千万千万」と。
お師匠さまは、後にこれを聞いて仰るには、「久右衛門、供養の塩梅はとても良かった。しかし、自分で鼠糞を掴み、各々の腕中に投じてしまったようだ。何とも惜しいことだ」と。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
詳しいことは、仙台藩の関係文献を具に見れば良かったのでしょうけれども、スミマセン。ちょっと手を出せる状況に無かったので、ネットで調べた限りですが、「和泉屋」というのは、「和泉」という名前から分かるように、「泉州堺」から来た商人だったようです。仙台藩には、海運に関わった「和泉屋」や、石垣造営に関わった「和泉屋」があったそうで、他にも、全国各地に領内米の販売網を構築していた伊達仙台藩に関わっていた「和泉屋」はいたことでしょう。
なお、「富家」とありますので、この記事が指す1700年前後、かなり大きな一家があったそうです。文章を詳しく見ていくと、泰心院の檀家というわけでは無いようですが、久右衛門の息子が出家したいと願い、可山洞悦禅師の下に行かせたようです。なお、可山禅師は得度をせずに弟子の損翁禅師にこの久右衛門の息子を譲り、「可益」と名付けています。「可山」の「可」と、「宗益」の「益」から取ったわけです。
ところで、こういう御縁があったためか、久右衛門は泰心院の修行僧達を30人ばかり、私邸に招いて饗応したようなのです。これは、当時は良くあったことで、修行僧を招いて食事を布施したわけですね。そこで、問題はこの饗応の席中に起きました。非常に良い食事を布施し、最後にお茶を振る舞っていた時に、久右衛門は「今日の食事は、自分の息子のためである。どうぞ宜しく」と、他の修行僧にお願いしたというのです。
親心としては理解出来ますが、これは、在家者のそれに等しい振る舞いです。例えば、自分の子どもをどこかに奉公に出して、その上役や先輩に対して、このように申し上げるのなら分かります。ですが、可益の入った先は仏門です。仏門では、このような親の配慮など無用です。無論、無くて良いというのではありません。しかし、「自分の息子だけ」と区切らず、修行僧全員に布施をすべきなのです。その一部が、自分の息子に行くというのが実際のところでしょう。
損翁禅師が、「鼠糞」と称したのは、この自分の息子のみを特別扱いしようとした、久右衛門の「親心」を指しているのです。現代でも、僧侶の「善し悪し」などをあげつらい、「布施をするなら、良い坊さんに」ということをいう人がいます。しかし、その人は、自分の分別心が「鼠糞」に過ぎないと知るべきです。道元禅師が、在家の人が僧侶に布施をする際の心構えを述べたことが『正法眼蔵随聞記』から知られます(詳細は【僧侶とは非難可能なのか?】参照)。
また、他にも、『正法眼蔵』「看経」巻を見ると、僧堂内での布施を行う場合、施主は全員に分け隔て無く布施をしなくてはならないことが定められています。今回の久右衛門の場合、形の上でならば布施は分け隔て無く行ったようですが、その目的が悪く、結果的に、依怙贔屓だったわけです。まぁ、今も昔も変わりないのでしょうけれども・・・
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仙台府に、富家であった和泉屋久右衛門という者がいた。その子供に許可を出して、可山祖翁(可山洞悦禅師。面山師から見て師匠の師匠に当たる。同寺七世)に属して弟子とさせた。しかし、祖翁は得度をしないまま、受業師の位を譲ってお師匠さまに与えられた。そこで、お師匠さまが得度して、可益と名付けられた。これは、祖翁とお師匠さまの号(可山と宗益)とを兼ねて名付けられたのである。
そこで、久右衛門は、大衆三十人余りを私邸に招いて食事を供養された。素晴らしい御膳を饗応し、終わって茶を飲む時に至り、慇懃に席に進んできて、大衆にこのようなことを述べた。「某甲、今日、大衆の皆さまを招いて供養いたしましたのは、専ら息子の可益のためにございます。各々方、いつの日か可益のことをよろしくお願いしたいと思います。この通り伏して乞うところでございます。千万千万」と。
お師匠さまは、後にこれを聞いて仰るには、「久右衛門、供養の塩梅はとても良かった。しかし、自分で鼠糞を掴み、各々の腕中に投じてしまったようだ。何とも惜しいことだ」と。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
詳しいことは、仙台藩の関係文献を具に見れば良かったのでしょうけれども、スミマセン。ちょっと手を出せる状況に無かったので、ネットで調べた限りですが、「和泉屋」というのは、「和泉」という名前から分かるように、「泉州堺」から来た商人だったようです。仙台藩には、海運に関わった「和泉屋」や、石垣造営に関わった「和泉屋」があったそうで、他にも、全国各地に領内米の販売網を構築していた伊達仙台藩に関わっていた「和泉屋」はいたことでしょう。
なお、「富家」とありますので、この記事が指す1700年前後、かなり大きな一家があったそうです。文章を詳しく見ていくと、泰心院の檀家というわけでは無いようですが、久右衛門の息子が出家したいと願い、可山洞悦禅師の下に行かせたようです。なお、可山禅師は得度をせずに弟子の損翁禅師にこの久右衛門の息子を譲り、「可益」と名付けています。「可山」の「可」と、「宗益」の「益」から取ったわけです。
ところで、こういう御縁があったためか、久右衛門は泰心院の修行僧達を30人ばかり、私邸に招いて饗応したようなのです。これは、当時は良くあったことで、修行僧を招いて食事を布施したわけですね。そこで、問題はこの饗応の席中に起きました。非常に良い食事を布施し、最後にお茶を振る舞っていた時に、久右衛門は「今日の食事は、自分の息子のためである。どうぞ宜しく」と、他の修行僧にお願いしたというのです。
親心としては理解出来ますが、これは、在家者のそれに等しい振る舞いです。例えば、自分の子どもをどこかに奉公に出して、その上役や先輩に対して、このように申し上げるのなら分かります。ですが、可益の入った先は仏門です。仏門では、このような親の配慮など無用です。無論、無くて良いというのではありません。しかし、「自分の息子だけ」と区切らず、修行僧全員に布施をすべきなのです。その一部が、自分の息子に行くというのが実際のところでしょう。
損翁禅師が、「鼠糞」と称したのは、この自分の息子のみを特別扱いしようとした、久右衛門の「親心」を指しているのです。現代でも、僧侶の「善し悪し」などをあげつらい、「布施をするなら、良い坊さんに」ということをいう人がいます。しかし、その人は、自分の分別心が「鼠糞」に過ぎないと知るべきです。道元禅師が、在家の人が僧侶に布施をする際の心構えを述べたことが『正法眼蔵随聞記』から知られます(詳細は【僧侶とは非難可能なのか?】参照)。
また、他にも、『正法眼蔵』「看経」巻を見ると、僧堂内での布施を行う場合、施主は全員に分け隔て無く布施をしなくてはならないことが定められています。今回の久右衛門の場合、形の上でならば布施は分け隔て無く行ったようですが、その目的が悪く、結果的に、依怙贔屓だったわけです。まぁ、今も昔も変わりないのでしょうけれども・・・
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