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「悪しき業論」では無い業論の構築は可能か?

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※この記事は、ブログ運営者であるtenjin95の個人的見解を吐露したものであり、tenjin95が所属する宗派や団体、組織、寺院とは一切関係が無く、それらの何かを代弁したものでは無いと表明いたします。抗議・意見がある方は、その方も、ただの個人として、拙僧と拙僧の見解に向き合っていただくようお願いいたします。それが出来ない方は、始めからこの記事は無かったものとしてご理解下さい。

「禁無断転載」なので、直接の引用はしないけれども、曹洞宗人権擁護推進本部が編集したブックレット「宗教と差別7」の『「悪しき業論」克服のために』(昭和62[1987]年、もう25年も前のものだ)では、差別を助長してきた「通俗的な業論」や、「悪しき業論」については指摘がなされているが、そうではない、仏教者が受けとめていかなくてはならない「業論」については、未だ示せる状況に無いとされている(「おことわり」参照)。

よって、結果的に「業」という概念や言葉そのものが否定され、とりあえず、このような概念を用いなければ良いのだ、というような風潮や認識が広がっているように感じられる。これは、差別的事象の助長に繋がりやすいことと、更にいえば、現代的な現世中心主義(仏教的には「断見」と呼ばれる)にも、一因があるといえよう。そして、業の否定はとても残念なことである。残念なことである理由は、やはり、我々の信仰の基本である曹洞宗の両祖の著作に、それぞれ業=因果論が明確に説かれていることに由来する。

いまのよに、因果をしらず、業報を明らめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見の輩には、群すべからず。
    道元禅師 12巻本『正法眼蔵』「三時業」巻

なお、管見ではあるが、両祖とも業=因果論を説くのは、それとして主題にするためでは無く、むしろ、これを媒介にして、例えば道元禅師であれば「善悪の問題」を介して「仏道の実践」を説くためであり、瑩山禅師であれば「仏道の実践の様相」を説いて、結果的に「有漏の道業を脱して、無漏の道業に至る」ことを説くためである。またしても管見であるが、道元禅師の業論の主眼は「不亡」にある。つまり、善業も悪業も、基本的にはそれとして消えない。だが、それとして消えないことは、別の方法によって現実との整合性を取られることとなる。それが、「懺悔」と「随喜」である。

世尊のしめしましますがごときは、善悪の業、つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふといふとも、不亡なり。もし因縁にあへば、かならず感得す。しかあれば、悪業は、懺悔すれば滅す、また転重軽受す。善業は、随喜すればいよいよ増長するなり、これを不亡といふなり、その報、なきにはあらず。
    同上

道元禅師は、三時業を通して、「善悪の再構築」と図ろうとしている、と拙僧は考えている。それは、善=正法、とし、悪=邪法(仏道以外の修行、理解)とし、後者に対しては「懺悔」を通して「転重軽受」させて前者に移行させ、前者に於いては「随喜」をもって、更に進めるように促しているということだ。それが、「三時業」巻では、「殺生」などの世間・出世間に共通する事象をもって説明されているため、どうしても「業論」が、多く僧侶によって世間の道徳の延長のようなところで語られたのであろう。だからこそ、「通俗的な業論」ともいわれ、これは断固として否定しなくてはならない、「親の因果が子に報い」的な発想・発言も見えたのである。

だが、道元禅師の主眼はそこには無い。「因果」の強調は、今の我々自身の修行を、意味のあるものとして、仏道の成就にまで繋げていくことが目的であるし、「善業・悪業」の強調は、繰り返しになるが、誤った教えや修行を離れ、正しい教えや修行をもって仏道の実践をすること、或いは、それを弟子達に促すことに目的があるはずである。だから、譬え世間一般や檀信徒に向けて教えを説くときも、とにかく、仏道の成就という観点のみをもって語ればまだ良かったのだが、余りに世間のありように介入した結果、差別の温床になったと考えられる。

例えば、仏道の成就という観点からいうと、以下に見る瑩山禅師の教えは、非常に示唆的である。

汝既に三業を信ずと雖も、未だ業の根本を知らず。業と云は善悪の報分れ、凡聖の品異なり、三界六道四生、九有並びに業報なり。此業は迷より発す。夫れ迷と云は憎愛すべからざるを憎愛し、是非すべからざるを是非す。其惑と云は、男に非ざるを男と知り、女に非ざるを女と知り、自を分ち他を隔つ。其不覚と云は、自己の根源を知らず、万法の生処を知らず、一切処に智慧を失ふ。之を無明と名く。是れは思慮なく縁塵なし。是心本清浄にして余縁に背くことなし。此心の一変するを不覚と謂ふ。此不覚を覚知すれば自己心本清浄なり。自性霊明なり。是の如く明らめ得れば、無明即ち破れて、十二輪転、終に空し。四生六道速に亡ず。人人本心是の如し。故に生滅の隔てなく造作の品なし。故に憎なく愛なく、増なく滅なし。唯寂寂然たり霊霊然たり。諸人者、本心を見得せんと思はば、万事を放下し、諸縁を休息して、善悪を思はず、且らく鼻端に眼を掛て本心に向て看よ。一心寂なる時、諸相皆尽く。其根本の無明、既に破るる故に、枝葉業報即ち存せず。
    瑩山禅師『伝光録』第20章

瑩山禅師は、禅宗第十九祖・鳩摩羅多尊者が、第二十祖・闍夜多尊者に向かって説いた「三時業」の教えに基づいて、以上のような提唱をされる。この提唱の主眼は、「業の根本」を知ることである。それは何かといえば、「無明によって、智慧を失うこと」である。我々に具わる仏心は、元より清浄であり、それを「自性霊明」と名付けている。この自性を明らかにすれば、無明も破れ、業の真実の姿を知ることになる。それは、実は、我々に輪廻を促していた業は、実は、自性清浄心を知らないことに由来する、我々の無明が原因だったのだ。よって、我々の「本心=仏心」を知れば、そのような業も皆、「即ち存せず」という話になる。これは例えば、道元禅師が「三時業」巻で批判した、長沙景岑に見るような「業障空」というような教えとは似て非なるものといえる。

長沙のあやまりは、如何是本来空と問するとき、業障是とこたふる、おほきなる僻見なり。業障、なにとしてか本来空ならむ。つくらずば業障ならじ、つくられば本来空にあらず。つくるは、これつくらぬなり。業障の当体をうごかさずながら、空なり、といふは、すでにこれ外道の見なり。業障本来空なり、として、放逸に造業せむ衆生、さらに解脱の期、あるべからず、解脱のひ、なくば、諸仏の出世あるべからず、諸仏の出世なくば、祖師西来すべからず、祖師西来せずば、南泉あるべからず、南泉なくば、たれかなむぢが参学眼を換却せむ。
    「三時業」巻

このように、長沙景岑は皓月供奉から、古徳(永嘉玄覚『証道歌』)が示した「了即業障本来空、未了応須償宿債(了ずれば即ち業障、本来空なり。未だ了ぜざれば、まさに須く宿債を償うべし)」に因んで、「如何なるか、是れ本来空」と聞かれて質疑を行った。だが、長沙はこの要である「了即・未了」をすっ飛ばして、業障即本来空であるとした。これが、道元禅師の批判の的である。だからこそ、「業障の当体をうごかさずながら、空なり」という見解に対して、これは仏道では無いとし、更には、「放逸に造業せむ衆生、さらに解脱の期、あるべからず」とも示されたのである。

更にいえば、瑩山禅師はこの場合、永嘉玄覚『証道歌』の見解に忠実だともいえる。だからこそ、「本心を明らかにすれば」という条件下で、「枝葉業報即ち存せず」なのである。更に、その「本心」を明らかにする方法を、「万事を放下し、諸縁を休息して、善悪を思はず、且らく鼻端に眼を掛て本心に向て看よ」と、明らかに曹洞宗の只管打坐に結びつけて論じている。道元禅師が「善業・悪業の不亡」を説いて、極力、善業=正法に結びつけようとした業論は、瑩山禅師に到り、改めて「了即」が取り出され、それを只管打坐に結び付けて成就せんとし、観念的思想から、具体的実践へと展開したのである。

我々が依るべきは、このような「思想的背景・概念の構造」を理解・把握した上での、只管打坐と業論との結び付け(安易に、「坐禅すれば、業は無くなる」的な言動は行ってはならない)を行うべきであるといえる。よって、ただ、坐り、何の境涯も得ないような空虚な坐禅では、最早通用しないのである。我々の坐禅に内容を充実させることも、人権問題に真摯に対応する、新たな道筋の一つを作るように思うのである。

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