とりあえず、【(1)】の続きである。そこで今日は、昨日紹介した『大品般若経』「大明品」の註釈である、龍樹尊者『大智度論』巻57「釈宝塔校量品第三十二」から、該当箇所の註釈を通して、『般若経』で説かれる「明呪」について学んでいきたいと思う。
・・・いや、あれ?何故か、「釈宝塔校量品」では「明呪」については全く論じられていない。でも、同じく「呪」について説く『大品般若経』「観持品」の註釈である「釈観受持品第三十四」には、以下のような問答でもって「呪」を示すので、それを学ぶことで、元々の目的を果たしたいと思う。
問うて曰く、釈提桓因、何を以ての故に、般若を名づけて、大明呪と為すや。
答えて曰く、諸外道の聖人に、種種の呪術有って、人民を利益す。是の呪を誦する故に、能く欲する所の意に随って、諸鬼神を使う。諸の仙人、是の呪有るが故に、大いに名声を得て、人民帰伏す。呪術を貴ぶ故なり。
是を以て、帝釈、仏に白して言く、「諸呪術中、般若波羅蜜、是れ大呪術なり。何を以ての故に、能く常に衆生に道徳の楽を与える故に。余の呪術、楽の因縁は能く煩悩を起こす。又た、善業ならざる故に、三悪道に堕す」と。
復た次に、余の呪術、能く貪欲・瞋恚に随って自在に悪を作す。是れ般若波羅蜜呪、能く禅定、仏道、涅槃の諸の著を滅す。何に況んや貪・恚の麁病をや。是の故に名づけて「大明呪・無上呪・無等等呪」と為す。
復た次に、是の呪、能く人をして老・病・死を離れしめ、能く衆生を大乗に立て、能く行者をして一切衆生中最大とす。是の故に「大呪」と言い、能く是の如く利益するが故に、名づけて「無上」と為す。
先ず仙人所作の呪術有り、所謂、能く他人の心を知る呪を、抑叉尼と名づけ、能く飛行・変化する呪を?陀梨と名づく。能く寿に住すること千万歳に過ぐる呪は、諸呪の中に於いて与に等しきもの無し。此の無等なる呪術の中より、般若波羅蜜は過出すること無量なるが故に、「無等等」と名づく。
復た次に、諸の仏法を無等と名づけ、般若波羅蜜は仏を得るの因縁なるが故に、「無等等」と言う。
復た次に、諸仏は一切衆生の中に於いて無等と名づけ、是の般若の呪術は、仏の所作なるが故に、「無等等呪」と名づく。
復た次に、此の経の中に自ら三呪の因縁を説く、所謂、「是の呪、能く一切の不善法を捨て、能く一切の善法を与う」と。
仏、其の歎ずる所に随う故に言く、「是の如し、是の如し」と。亦た更に其の讃ずる所を広くしたまう。所謂、「般若に因るが故に、十善道、乃至諸仏を出生す」と。
是の般若波羅蜜、菩薩に属するが故に、仏は譬喩を説く、「諸仏は能く大いに無明の闇を破したまうが故に、満月の如く、菩薩は闇を破すること如かざるが故に、星宿の如し」と。夜中に見る所あるは、皆、是れ星・月の力なるが如く、世間生死の夜中に知見する所有るは、皆、是れ仏・菩薩の力なり。若し世に仏無ければ、爾の時、菩薩は法を説いて衆生を度したまう。人天の楽中に著するより、漸漸に涅槃の楽を得せしむ。菩薩の有する所の智慧は、皆、是れ般若波羅蜜の力なり。
『大智度論』巻58
ここから、「般若波羅蜜」が、「大明」であり「呪」である意図も理解できる。まず、仏道以外の宗教の聖人には、「呪術」があり、この「呪」という概念があれば、すぐれた力を表現できると考えられていたようである。その上で、何故、「般若波羅蜜」を「大呪術」と表現するのかといえば、「衆生に楽を与える」ためであるという。無論、他の宗教で用いる「呪」も、楽を与えはするがそれは、あくまでも煩悩を増大させる「楽」であって、結果として善行とはならず却って悪しき因縁になるとされている。この辺には、大乗経典に見える、自己優位性の概念を確認できる。
その上で、「般若波羅蜜」は、こだわり、把われ、三毒などから離れさせてくれるため、これを「大明呪」などと名づけるという。あくまでも、他の呪術とは一線を画した内容であると讃歎されている。
ところで、上記引用文にもある通り、「般若波羅蜜」には、「大明呪・無上呪・無等等呪」であるというが、この「三呪」については、「是の呪、能く一切の不善法を捨て、能く一切の善法を与う」としている。これは、確かに「陀羅尼」自体の定義に合致するため、いわゆる「般若波羅蜜」の中に、これらの機能が観得されていたことになるのだろう。同じく、「般若に因るが故に、十善道、乃至諸仏を出生す」ともあるが、十善道は在家信者にも適用される善行であり、諸仏は文字通りであろうから、昨日論じたところの意味は、ここから理解できることになるだろう。つまり、「般若波羅蜜」によって、あらゆる仏教的存在はその存在性を肯定されていくことになる。
また、「大明呪」の「大明」となる理由については、最後の一段があるのだろう。つまり、「般若波羅蜜」とは、「仏の智慧の完成」であるが、同時に「満月」のようなものである。菩薩とは「星」のようなものであり、限定的である。しかし、月である仏がいない世界では、星に頼るしかなく、その星の輝きは般若に因るのであり、ここから「大明」たる「般若」が讃歎されることになるといえる。
この記事を評価して下さった方は、
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
・・・いや、あれ?何故か、「釈宝塔校量品」では「明呪」については全く論じられていない。でも、同じく「呪」について説く『大品般若経』「観持品」の註釈である「釈観受持品第三十四」には、以下のような問答でもって「呪」を示すので、それを学ぶことで、元々の目的を果たしたいと思う。
問うて曰く、釈提桓因、何を以ての故に、般若を名づけて、大明呪と為すや。
答えて曰く、諸外道の聖人に、種種の呪術有って、人民を利益す。是の呪を誦する故に、能く欲する所の意に随って、諸鬼神を使う。諸の仙人、是の呪有るが故に、大いに名声を得て、人民帰伏す。呪術を貴ぶ故なり。
是を以て、帝釈、仏に白して言く、「諸呪術中、般若波羅蜜、是れ大呪術なり。何を以ての故に、能く常に衆生に道徳の楽を与える故に。余の呪術、楽の因縁は能く煩悩を起こす。又た、善業ならざる故に、三悪道に堕す」と。
復た次に、余の呪術、能く貪欲・瞋恚に随って自在に悪を作す。是れ般若波羅蜜呪、能く禅定、仏道、涅槃の諸の著を滅す。何に況んや貪・恚の麁病をや。是の故に名づけて「大明呪・無上呪・無等等呪」と為す。
復た次に、是の呪、能く人をして老・病・死を離れしめ、能く衆生を大乗に立て、能く行者をして一切衆生中最大とす。是の故に「大呪」と言い、能く是の如く利益するが故に、名づけて「無上」と為す。
先ず仙人所作の呪術有り、所謂、能く他人の心を知る呪を、抑叉尼と名づけ、能く飛行・変化する呪を?陀梨と名づく。能く寿に住すること千万歳に過ぐる呪は、諸呪の中に於いて与に等しきもの無し。此の無等なる呪術の中より、般若波羅蜜は過出すること無量なるが故に、「無等等」と名づく。
復た次に、諸の仏法を無等と名づけ、般若波羅蜜は仏を得るの因縁なるが故に、「無等等」と言う。
復た次に、諸仏は一切衆生の中に於いて無等と名づけ、是の般若の呪術は、仏の所作なるが故に、「無等等呪」と名づく。
復た次に、此の経の中に自ら三呪の因縁を説く、所謂、「是の呪、能く一切の不善法を捨て、能く一切の善法を与う」と。
仏、其の歎ずる所に随う故に言く、「是の如し、是の如し」と。亦た更に其の讃ずる所を広くしたまう。所謂、「般若に因るが故に、十善道、乃至諸仏を出生す」と。
是の般若波羅蜜、菩薩に属するが故に、仏は譬喩を説く、「諸仏は能く大いに無明の闇を破したまうが故に、満月の如く、菩薩は闇を破すること如かざるが故に、星宿の如し」と。夜中に見る所あるは、皆、是れ星・月の力なるが如く、世間生死の夜中に知見する所有るは、皆、是れ仏・菩薩の力なり。若し世に仏無ければ、爾の時、菩薩は法を説いて衆生を度したまう。人天の楽中に著するより、漸漸に涅槃の楽を得せしむ。菩薩の有する所の智慧は、皆、是れ般若波羅蜜の力なり。
『大智度論』巻58
ここから、「般若波羅蜜」が、「大明」であり「呪」である意図も理解できる。まず、仏道以外の宗教の聖人には、「呪術」があり、この「呪」という概念があれば、すぐれた力を表現できると考えられていたようである。その上で、何故、「般若波羅蜜」を「大呪術」と表現するのかといえば、「衆生に楽を与える」ためであるという。無論、他の宗教で用いる「呪」も、楽を与えはするがそれは、あくまでも煩悩を増大させる「楽」であって、結果として善行とはならず却って悪しき因縁になるとされている。この辺には、大乗経典に見える、自己優位性の概念を確認できる。
その上で、「般若波羅蜜」は、こだわり、把われ、三毒などから離れさせてくれるため、これを「大明呪」などと名づけるという。あくまでも、他の呪術とは一線を画した内容であると讃歎されている。
ところで、上記引用文にもある通り、「般若波羅蜜」には、「大明呪・無上呪・無等等呪」であるというが、この「三呪」については、「是の呪、能く一切の不善法を捨て、能く一切の善法を与う」としている。これは、確かに「陀羅尼」自体の定義に合致するため、いわゆる「般若波羅蜜」の中に、これらの機能が観得されていたことになるのだろう。同じく、「般若に因るが故に、十善道、乃至諸仏を出生す」ともあるが、十善道は在家信者にも適用される善行であり、諸仏は文字通りであろうから、昨日論じたところの意味は、ここから理解できることになるだろう。つまり、「般若波羅蜜」によって、あらゆる仏教的存在はその存在性を肯定されていくことになる。
また、「大明呪」の「大明」となる理由については、最後の一段があるのだろう。つまり、「般若波羅蜜」とは、「仏の智慧の完成」であるが、同時に「満月」のようなものである。菩薩とは「星」のようなものであり、限定的である。しかし、月である仏がいない世界では、星に頼るしかなく、その星の輝きは般若に因るのであり、ここから「大明」たる「般若」が讃歎されることになるといえる。
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。