今日9月16日は「敬老の日」です。例の、ハッピーマンデーになってしまったので、可動式になってしまいました。拙僧の高校の先輩では、9月15日にお生まれになったので、名前にその関連した字が入っている方がおられましたが、今やその説明は使えません・・・
さておき、「祝日法」ですと、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としています。元々は、関西で行われていた「としよりの日」を元にしているそうで、地元に住む高齢者から、様々な智慧をお借りするような日とされていたようです。ということで、今日は「老」について学んでいきたいと思います。今この字については、いわゆる「年寄り」の意味ばかりを考えてしまいますが、実は「物事に通じている」とか、「長い経験を積んでいる」といった意味もあります。
それを前提に以下の一文をご覧戴きたいと思います。
いま開演ある老梅樹、それ太無端なり、忽開華す、自結果す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは狂風をなし、あるいは暴雨をなす。あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古仏の眼睛なり。あるいは草木となれり、あるいは清香となれり。驀剳なる神変神怪、きはむべからず。乃至大地・高天、明日・清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり、葛藤の葛藤を結纒するなり。老梅樹の忽開華のとき、華開世界起なり。華開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五華の一華あり。この一華時、よく三華・四華・五華あり、百華・千華・万華・億華あり、乃至無数華あり。これらの華開、みな老梅樹の一枝・両枝・無数枝の不可誇なり。優曇華・優鉢羅華等、おなじく老梅樹華の一指・両指なり。おほよそ一切の華開は、老梅樹の恩給なり。人中・天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間・天堂を樹功せり。百千華を人天華と称す、万億華は仏祖華なり。恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作するなり、祖師本来茲土と喚作するなり。
『正法眼蔵』「梅華」巻
この一節は、道元禅師の本師である天童如浄禅師の上堂語への提唱として行われたものです。特に、「老梅樹太無端」を基軸に読み解いていることが分かります。そうなると、この「老梅樹」とは、「老なる梅樹」となりますが、これが「太だ無端なり」となっています。よって、この場合の「老」については、結局「物事に通じている」「道理に通じている」と解釈するのが良さそうです。
その上で、読み解いていく必要を感じます。
まず、華を開き、実を結ぶ、或いは春や冬になる、或いは風雨をもたらす、或いは僧侶の頭、古仏の眼、草木・清香、神変等々、これが「老梅樹」によって起きるとされます。そうなると、この「老梅樹」とは、あらゆる現象そのもの根底になることが分かります。根底といっても、実体的本源としてあるのでは無く、要は「法」ということです。「老梅樹」とは「仏法」だと解釈されています。
この解釈を元に考えれば、この世界に於ける一切の事象は、「老梅樹」の内に起きたことであり、道元禅師はそれを「樹功」としています。「功」とは「働き」として考えて良い句ですから、樹の働きとして考えていることになります。その働きの中に、「忽開華」があります。道元禅師は開華を「華開世界起」としています。この句は、達磨大師の本師である般若多羅尊者の伝法偈になりますが、詳しいことは『正法眼蔵』「空華」巻をご覧下さい。
そして、この華開とは、同時に我々に悟りが花開くことを意味しているのですが、それは当然に仏法の働きということになります。それを、端的に道元禅師は「恩給」とします。人間界・天上界に老梅樹があるのですが、実は老梅樹の中に、人間界や天上界が成り立っているのです。そして、その中に花が花開くことを、仏祖が仏祖として成り立ったことを意味します。
いわば、老梅樹とは、この世界と仏祖とを成り立たせる道理としてあるということです。そのような原理的なる働き・法に対して、「老」という言葉が、適切に用いられているのです。老とは、ただ年齢を重ねることを意味する言葉であります。同時に、道理に通じていることをも意味しています。よって、「敬老」せねばならないという結論に達するのです。
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さておき、「祝日法」ですと、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」ことを趣旨としています。元々は、関西で行われていた「としよりの日」を元にしているそうで、地元に住む高齢者から、様々な智慧をお借りするような日とされていたようです。ということで、今日は「老」について学んでいきたいと思います。今この字については、いわゆる「年寄り」の意味ばかりを考えてしまいますが、実は「物事に通じている」とか、「長い経験を積んでいる」といった意味もあります。
それを前提に以下の一文をご覧戴きたいと思います。
いま開演ある老梅樹、それ太無端なり、忽開華す、自結果す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは狂風をなし、あるいは暴雨をなす。あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古仏の眼睛なり。あるいは草木となれり、あるいは清香となれり。驀剳なる神変神怪、きはむべからず。乃至大地・高天、明日・清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり、葛藤の葛藤を結纒するなり。老梅樹の忽開華のとき、華開世界起なり。華開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五華の一華あり。この一華時、よく三華・四華・五華あり、百華・千華・万華・億華あり、乃至無数華あり。これらの華開、みな老梅樹の一枝・両枝・無数枝の不可誇なり。優曇華・優鉢羅華等、おなじく老梅樹華の一指・両指なり。おほよそ一切の華開は、老梅樹の恩給なり。人中・天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間・天堂を樹功せり。百千華を人天華と称す、万億華は仏祖華なり。恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作するなり、祖師本来茲土と喚作するなり。
『正法眼蔵』「梅華」巻
この一節は、道元禅師の本師である天童如浄禅師の上堂語への提唱として行われたものです。特に、「老梅樹太無端」を基軸に読み解いていることが分かります。そうなると、この「老梅樹」とは、「老なる梅樹」となりますが、これが「太だ無端なり」となっています。よって、この場合の「老」については、結局「物事に通じている」「道理に通じている」と解釈するのが良さそうです。
その上で、読み解いていく必要を感じます。
まず、華を開き、実を結ぶ、或いは春や冬になる、或いは風雨をもたらす、或いは僧侶の頭、古仏の眼、草木・清香、神変等々、これが「老梅樹」によって起きるとされます。そうなると、この「老梅樹」とは、あらゆる現象そのもの根底になることが分かります。根底といっても、実体的本源としてあるのでは無く、要は「法」ということです。「老梅樹」とは「仏法」だと解釈されています。
この解釈を元に考えれば、この世界に於ける一切の事象は、「老梅樹」の内に起きたことであり、道元禅師はそれを「樹功」としています。「功」とは「働き」として考えて良い句ですから、樹の働きとして考えていることになります。その働きの中に、「忽開華」があります。道元禅師は開華を「華開世界起」としています。この句は、達磨大師の本師である般若多羅尊者の伝法偈になりますが、詳しいことは『正法眼蔵』「空華」巻をご覧下さい。
そして、この華開とは、同時に我々に悟りが花開くことを意味しているのですが、それは当然に仏法の働きということになります。それを、端的に道元禅師は「恩給」とします。人間界・天上界に老梅樹があるのですが、実は老梅樹の中に、人間界や天上界が成り立っているのです。そして、その中に花が花開くことを、仏祖が仏祖として成り立ったことを意味します。
いわば、老梅樹とは、この世界と仏祖とを成り立たせる道理としてあるということです。そのような原理的なる働き・法に対して、「老」という言葉が、適切に用いられているのです。老とは、ただ年齢を重ねることを意味する言葉であります。同時に、道理に通じていることをも意味しています。よって、「敬老」せねばならないという結論に達するのです。
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