明恵上人(1173〜1232)に或る逸話が残されています。早速見ていきましょう。
また、人が祈祷をして欲しいと望んでいることを申し出てくれば、(明恵)上人は「私は朝晩、一切衆生のために祈念をしておりますから、定めて貴方もその数の中に入っているでしょう。そうであれば、別に祈る必要もないでしょう。(その願いが)叶うのでしたら叶うでしょう。また、叶わないことであれば、仏の御力も及ばないことなのです。
その上、平等の心に背いて、貴方のことばかり祈ることは、仏法に於いては甚だ誤りとなるでしょう。仏神の悟りに比べれば、(個別のことに拘るのは)恥ずかしく思うほどです。また、仏はそれぞれの皆さんを、我が子のように思し召しでいらっしゃいますから、(貴方の願いを)叶えてくださらないのは、何か理由があるのでしょう。例えば、幼い子供が毒が入っていると知らずに食べようとした物を、親が奪い取ったとすれば、(子供はその親の行いを)甚だ恨んで泣き出すようなものです。その時は、自分の思いが叶わないように思っても、最終的には良いことだったという計らいです。そうであれば、仏や神をお恨みなさるな。
また、不信でいい加減な心がある人は、千仏も救われません。そうであれば、自分自身が拙いことを顧みて、その身を怨みのように思えば良いのです。祈っても叶わない時は、仏の御計らいがあるのだと思えば良いのです。このように申し上げますと、かつての聖人たちが定めた掟に背いて、他人のための祈りをしないといっているおかしな奴がいるという評判になると思います。これまでの聖人は、皆さん方便があって述べおいた子細がありますが、私のような無知の者が、配慮もなくその言葉を鵜呑みにすれば、大いなる誤りもあります」といって、聞き入れられませんでした。
『明恵上人伝記』講談社学術文庫、185〜186頁、拙僧ヘタレ訳
以前、【無住道曉『沙石集』の紹介(10p)】という記事にも書きましたが、大乗仏教では、一切衆生に対して功徳を回向することを、その本懐・本願・本行としますから、特定の対象だけに向けるというのは余り感心できないということになります。我々の願いとはあくまでも「普回向」的であり、「四弘誓願」的であり、常に自己・他己の垣根を越え、それら含めた一切の衆生を思い巡らすものなのです。
逆にいえば、このような一切衆生を救済せんと願うこととは、仏教者にとっては一定の倫理性を帯びることにもなります。要するに、世俗的な価値に把われることがないという意思表明に繋がります。どういうことかといえば、純粋に経済的な計算だけを振りかざすならば、それは布施の金銭を多く支払える人の願いを叶えようとし、そうではない貧乏人を敬遠して然るべきです。また、経済力や権力を持つ人に対して、へつらうことも当然であるといえましょう。しかし、明恵上人は、この場合にはそれを断ったようです(ただし、これは権力者を批判したというわけではなく、後鳥羽院や建礼門院[平清盛の女]などとの関わりがあったことが「伝記」から分かります)。
そして、その断る理由がまた秀逸です。当時の明恵上人の「名声」は、天皇にまで及び、非常に優れた「高僧」であるという評判だったようです。しかし、その当の本人は、衆生の願いを叶えるのは自分ではなくて、仏であるというわけです。よって、もし仏がその人の願いを叶えないというのなら、それは、仏を毒づくのではなくて、むしろその叶わなかった、ということを良い意味で採るように促しています。叶えてもらえなかったというのは、そのことに於いて、仏の慈悲を感じるべきだというのです。仏なら、何でも願いを叶えてくれるとばかり考えている人には、良い薬になる言葉ですね。
そして、最後の一段もまた素晴らしいですね。仏を信じていない者には救いの手は及ばないのです。これもまた当然であるといえます。逆にいえば、信じているからこそ、その時に願いが叶わなくても、泰然自若と生きることが出来、そして死を迎えることが出来るといえましょう。大概、人(特に権力者などが)がこの世に於いて願うことというのは、自分自身の権力の拡大、或いはその家の繁栄といったところでしょう。しかし、仏は平等の考えをお持ちですから、そのような特定の人や家系にばかり、権力や経済が集まることで、かえって世の不平等を拡大するのなら、願いは叶えないかもしれません。明恵上人が仰りたいことはそのようなことです。
なお、仏が貧乏人のためにある、と思うのも間違いです。仏は誰のためにもあるのです。それは、世の経済的な問題とは無縁だからです。その点、いわゆる社会主義などとは一線を画して理解されるべきだといえましょう。
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また、人が祈祷をして欲しいと望んでいることを申し出てくれば、(明恵)上人は「私は朝晩、一切衆生のために祈念をしておりますから、定めて貴方もその数の中に入っているでしょう。そうであれば、別に祈る必要もないでしょう。(その願いが)叶うのでしたら叶うでしょう。また、叶わないことであれば、仏の御力も及ばないことなのです。
その上、平等の心に背いて、貴方のことばかり祈ることは、仏法に於いては甚だ誤りとなるでしょう。仏神の悟りに比べれば、(個別のことに拘るのは)恥ずかしく思うほどです。また、仏はそれぞれの皆さんを、我が子のように思し召しでいらっしゃいますから、(貴方の願いを)叶えてくださらないのは、何か理由があるのでしょう。例えば、幼い子供が毒が入っていると知らずに食べようとした物を、親が奪い取ったとすれば、(子供はその親の行いを)甚だ恨んで泣き出すようなものです。その時は、自分の思いが叶わないように思っても、最終的には良いことだったという計らいです。そうであれば、仏や神をお恨みなさるな。
また、不信でいい加減な心がある人は、千仏も救われません。そうであれば、自分自身が拙いことを顧みて、その身を怨みのように思えば良いのです。祈っても叶わない時は、仏の御計らいがあるのだと思えば良いのです。このように申し上げますと、かつての聖人たちが定めた掟に背いて、他人のための祈りをしないといっているおかしな奴がいるという評判になると思います。これまでの聖人は、皆さん方便があって述べおいた子細がありますが、私のような無知の者が、配慮もなくその言葉を鵜呑みにすれば、大いなる誤りもあります」といって、聞き入れられませんでした。
『明恵上人伝記』講談社学術文庫、185〜186頁、拙僧ヘタレ訳
以前、【無住道曉『沙石集』の紹介(10p)】という記事にも書きましたが、大乗仏教では、一切衆生に対して功徳を回向することを、その本懐・本願・本行としますから、特定の対象だけに向けるというのは余り感心できないということになります。我々の願いとはあくまでも「普回向」的であり、「四弘誓願」的であり、常に自己・他己の垣根を越え、それら含めた一切の衆生を思い巡らすものなのです。
逆にいえば、このような一切衆生を救済せんと願うこととは、仏教者にとっては一定の倫理性を帯びることにもなります。要するに、世俗的な価値に把われることがないという意思表明に繋がります。どういうことかといえば、純粋に経済的な計算だけを振りかざすならば、それは布施の金銭を多く支払える人の願いを叶えようとし、そうではない貧乏人を敬遠して然るべきです。また、経済力や権力を持つ人に対して、へつらうことも当然であるといえましょう。しかし、明恵上人は、この場合にはそれを断ったようです(ただし、これは権力者を批判したというわけではなく、後鳥羽院や建礼門院[平清盛の女]などとの関わりがあったことが「伝記」から分かります)。
そして、その断る理由がまた秀逸です。当時の明恵上人の「名声」は、天皇にまで及び、非常に優れた「高僧」であるという評判だったようです。しかし、その当の本人は、衆生の願いを叶えるのは自分ではなくて、仏であるというわけです。よって、もし仏がその人の願いを叶えないというのなら、それは、仏を毒づくのではなくて、むしろその叶わなかった、ということを良い意味で採るように促しています。叶えてもらえなかったというのは、そのことに於いて、仏の慈悲を感じるべきだというのです。仏なら、何でも願いを叶えてくれるとばかり考えている人には、良い薬になる言葉ですね。
そして、最後の一段もまた素晴らしいですね。仏を信じていない者には救いの手は及ばないのです。これもまた当然であるといえます。逆にいえば、信じているからこそ、その時に願いが叶わなくても、泰然自若と生きることが出来、そして死を迎えることが出来るといえましょう。大概、人(特に権力者などが)がこの世に於いて願うことというのは、自分自身の権力の拡大、或いはその家の繁栄といったところでしょう。しかし、仏は平等の考えをお持ちですから、そのような特定の人や家系にばかり、権力や経済が集まることで、かえって世の不平等を拡大するのなら、願いは叶えないかもしれません。明恵上人が仰りたいことはそのようなことです。
なお、仏が貧乏人のためにある、と思うのも間違いです。仏は誰のためにもあるのです。それは、世の経済的な問題とは無縁だからです。その点、いわゆる社会主義などとは一線を画して理解されるべきだといえましょう。
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